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2013年09月19日 (木) | Edit |
前の記事に関連して。。。

下は、以前にも紹介した小澤征爾さんのコメント(らしい)。
ぼくたち指揮者は一生懸命音を混ぜようとしているのに、どうして君たちオーディオマニアはそれを分解して聴こうとするんだい?

きっと、
「ぼくたちは、オーケストラの全ての楽器とホールを、何百年もかけて先達が築きあげてきたヒミツの法則にさらに磨きをかけて1つに調和させ、時間的にダイナミックに流れ移ろう1つの巨大/複雑な統合体である「音楽」を聴衆の眼前に現出させようと心血を注いでいるのに、どうしてそれを個々の楽器に分離するどころか、極めて局所的/微視的な「音現象」にまで分離して聞こうとするのか?」と言いたいのだと思います。

とにかく、彼らの意識は「音楽」(すなわち超感覚的に捉える統合体)へと向かうのではなく、全く逆の方向(聴覚に縛られた際限なく微小な音響現象の知覚)へと向かう傾向が異常に強いと言えるでしょう(180°グルットというやつです)。オヂオヒヨロンカ センセがそいう聞き方をするからでしょうか。ホンマニ音楽聴きたいのか?と問いたくなります。

もちろん、音楽をどう聞こうが個人の勝手です。しかし、問題は、そのような傾向を強く持つ特殊なクラスターに属するヒトビト(オヂオヒヨロンカ、マニア、オタク)がオーディオ界において強い発言力や影響力を持ち続けて来た点にあります。その結果、音楽再生上全く基礎的で重要で巨大な問題を何十年も放ったらかしにして、これまた際限もなくコマケー事にばかりに拘泥するという、技術開発アプローチとしては全くドシロートなウルトラ超三流状態(泥沼)に陥っています。世間一般にとっては全く迷惑千万なハナシです。。。

モータの音とか前照灯のコマケー位置とかマニアックな事ばかりに拘って、通勤電車がいつまでたっても安全に快適に安価にならなかったら、誰だって怒るでしょう。違いますか?

ですから僕は、事あるごとに、音楽のプロフェッショナルである「音楽界」(表現者)がもっと民生オーディオに強く関与すべきだと言っているのです。ドシロートに好き放題やらせると永遠にグルグルするばかりでしょう。

さて、コミック「のだめカンタービレ」で、千秋が常任指揮者を務めるマルレオケのコンマス(シモンさんだっけ?)が団員達に語った言葉がとても印象に残っています。

「アンサンブルの神髄はハーモニー。要するに『調和』だ」
「この調和は古代ギリシャ時代の『ハルモニー』と呼ばれ、キリスト教社会になった時『神の作りたもうた世界は素晴らしい調和によって創造されている。その調和の根本原理は数の関係によって成り立つ』」
「それを探求することによって、調和の謎が解明でき、神の世界をより詳しく知る手がかりを得ると考えた」
「音楽の本質は『調和』にあるのだ。それを表現するのが真の『音楽家』なんだ」


調和、調和、調和、チョーワ、チョンワ、チョンワ、クェッ、クェッ、一体何回出てきた?
調和(ヒミツのバランスとかエー塩梅)こそが「音楽性」ってやつでしょう。

これは何も、いわゆる「クラシック」と呼ばれる、なんだかそれだけでやたら無条件にアリガタがられる傾向にある特定ジャンルの音楽にだけ当てはまる事ではありません。あれは、あの時代に作られた、あの時代を反映する音楽だと言うに過ぎません。時代性を超越したスッゲーのもあれば凡庸なのもタクサンあるでしょう。

常に時代と共に、というか時代の先頭を切って変化するのがアートです。そうでないとイケマセン。新しい世界の見え方を、新しい「クールさ」を、「ドヤ!」とドヤ顔で僕達に突きつけるのがアーチストさんです(最近お目にかかれないけどね)。そして、ベトベンこそがそのようなアーチストさんの始祖であると僕は考えています。クラシックであれジャズであれロックであれポップスであれ、全て、上記を起源とする「西洋音楽」の基本法則に従うという点では同じです。

また、上では随分難しげな事を言っていますが、「チョーワ」とか難しげな事を眉間にしわ寄せて「考え」たり「分析」しながら聴いたら、その時点でオッシマイです。オッシマイ。全てダイナシ。せっかくのヒミツは全部手からこぼれ落ちるでしょう。ここでもヒヨロンカごっこする必要は全くアリマセン。ブルースリーも言ってますよね「Don't think, feel.」ってね。素直に楽しまなくっちゃ。ふにゃーっとココロを遊ばせないと。

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それには、まず第一に「自分が」本当に大好きな、「自分が」本当に聴きたい音楽を見付ける事が重要です。オンシツとかオンヂョとか意識にも登らないくらい大好きなのをね。当ブログで何度も紹介した「音楽家の多くは高精度のハイファイ音を楽しむのではなく、音楽の本質を聴く。したがって、彼等は名演奏であれば、SPから再生されたCDでも満足して聴いていることが多い。」って論文の抄録がありましたよね。だって、彼らは三度の飯より「音楽」が大好きなワケですからそうなりますよね。オンヂョなんかに意識は向かいません。

何も「チョーワ」してそうなエラソーでムツカシソーな音楽をキョーヨー(教養)としてかしこまって聴く必要なんかアッリマセン。学校の音楽の授業ぢゃぁナイのですから。それでは結局「音楽」をホントニ心から楽しめないでしょう。ココロを遊ばせる事はできないでしょう。楽しめないから「ツマラナイ」(出た!)、「ツマラナイ」から無理矢理「ツマラス」ために卑近な感覚界の現象にアレヤコレヤと拘泥する。「ツマラナイ」なら「自分」にとって本当に「ツマル」「音楽」(オトではない)をまず探しましょう。

だいたいクラシックは、遠い遠い昔の、遠い遠いお国で、ルネサンスを経たとは言えまだまだキリスト教がヒトビトの精神を今よりもずっと強く支配し、世の中の仕組みもヒトビトの世界感も現在とは大きく異なる時代の音楽です。ハプスブルグさんやブルボンさんが幅を効かせていた時代です。主には教会とかそいう人達向けに作られた音楽だという事です。今の我々にはトッツキが悪くて当然でしょう。まずは何でも良いから、もっと身近でもっと「自分が」素直にカッコイーとかキンモチイーとかスッゲーと思うのを見付けて素直に楽しめば良いと思います。そっからです。全ては。

ヒヨロンカの言う事なんか絶対信じちゃぁイケマセン。作家自身の言葉すら信用デキマセン(やってる本人達ですら良く分かっていないのがアートですからね。だからこそオモシロイわけです)。「自分だけ」が頼りです。それが「感性」ってやつです。そのような経験を積めば、「自分は」音楽に何を求めているのか、「自分は」何が好きなのかもダンダンと明確になるでしょうし、そっから遡れば、根っこは同じなので自然とクラシックの中にも時代性を超越して「自分が」本当に「クールだ」と感じるヤツも見つかるでしょう。

あ、それと、アーチストさん達は僕達を「癒す」ために命削ったのではないと思います。音楽にやたら「癒し」を求めるのはチガウのヂャァないかなと思いますよ。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
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