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2013年04月20日 (土) | Edit |
僕が激しく違和感を覚える点について、何回かに分けてツラツラグダグダ書いてみます。

その第1は「良い音」です。

メーカも、ヒヨロンカも、マニアも皆一様にほぼ例外なく「良い音」を目指すのだと、しきりに繰り返します。まるで呪文のように。それがまるでオヂオ装置の究極の目的でもあるかのように。何の疑問もなく。

でも、「良い音」って一体全体なに?ナンナノヨ?と、僕は激しく疑問に思います。全ての違和感の根源はここにあります。

LEANAUDIOに着手した当初は、ヒトビトがそう言うならばそう言うものなのだろう。。と、さほど違和感なく受け入れていたのですが、開発の実体験を重ねるにつれて違和感は急激に強まりました。これから書く事は、「音楽を夢中で聴いた経験と、写真を通して表現者のマネゴトにホンマアホみたいに取り組んだ経験と、プロの開発技術者として民生向け工業界に深く関わった経験」を持つ者として、LEANAUDIOを通して得た全く素直な実感です。観念で申しているワケではありません。だいたい、それまでそんな事をグダグダ考える必要もなく普通に音楽に接して来ましたから。カナル型イヤフォンでショックを受け、オヂオ界の現状を目の当たりにするまではね。。。。

何度も言うように、どのような「音」を出すかは、全て表現者の側に委ねられます。彼が「彼のイメージする綺麗な音」をリスナに聞いて欲しければ「彼のイメージする綺麗な音」がモニタから聞こえるよう録音を調整するでしょうし、彼が「彼のイメージする神経を逆なでするような音」をリスナに聞かせたければ「彼のイメージする神経を逆なでするような音」がモニタから聞こえるよう録音を調整するでしょう。当然ですよね。アッタリマエです。画家が何色を使って何をどう描こうが全て画家の勝手なのと全く同じです。

絵画や写真を鑑賞する際、我々はそこに身勝手な「良い色」や「良いトーン」やナンヤカンヤを求めず素直にソノママ受け入れます。色補正フィルタの眼鏡を着用してフィルタを微妙にトッカエヒッカエしながら「良い色?」や「自分の色?」をツイキュしたりしませんよね。それをツイキュウしたい者は、自分で画を描いたり写真を作成するのが普通です。その方が色眼鏡トッカエヒッカエして人様の作品を見るよりも、ヒャクオクマン倍楽しいでしょうし、センオクマン倍クリエーティブでしょう。

音楽でも、生演奏を聴く場合はそうです。諸々の環境条件に多少難があっても、アーダコーダ抜かさず素直に受け入れて目の前のアーチストさんの演奏に全く素直にもうドキドキワクワクして夢中になって聞き入ります。デスヨネ?違いますか?

鑑賞とは、その第1段階において全く徹底的に受動的な行為です。「お友達の言っている事をまず『良く聞き』ましょうね」って、小学校で先生に言われますよね。同じ事です。ましてや特別な才能を授かり、それに命懸けで精進した者達の(こと音楽に関してはドシロートの自分達からみれば遙か雲の上のレベルに到達した者達の)作品に接するわけですから、言わずもがなでしょう。僕のLEANAUDIOは正に『良く聞く』ための装置を目指したと言えます。そのように素直に接した上で(僕は例のフニャーーーーと弛緩する)、「自分にとって」聴く必要がある作品かどうかを「自分独自」の価値基準に基づいて全く「能動的に」判別し(それがビーシキ(美意識)ってやつです)、そこから「自分なりに」何を感じ取るか、それを通して何に何処までアクセスするかは全く鑑賞者の自由であり(それがカンセー(感性)ってやつです)、鑑賞者はそこにこそ能動性と創造性を思う存分に発揮できるわけです(なんか、オヂオって全くその逆(グルッと180°)をやっているような気がしないでもない)。

これも何度でも言うように、家庭用オーディオ装置の世の中における最も基本的な命題は、音楽表現を表現者から鑑賞者に伝達する事にあります。基本的に電気機械式単方向情報伝達装置であるという事です。これにおいてディスプレイ装置と何ら変わるところはありません。

理想的な状態が実現すれば、彼ら表現者はオヂオマニア達の言う「全くツマラナイ、全くオンガクセーとやらの無い、全くフラットな周波数特性を持つ、全く付帯音の無い」全く白いキャンバスである理想的なモニタ環境で、彼らがツマラナイと感じるならば彼らが必要と感じるだけの響きや音色を加え、彼らが必要と感じるだけの強調や省略を存分に施して徹底的に作品を作り込み(オ、イーネー!ってね)、我々はそれを「全くツマラナイ、全くオンガクセーとやらの無い、全くフラットな周波数特性を持つ、全く付帯音の無い」全く白いスクリーンである理想的な再生環境で、彼らが拘り抜いたツマルトコロを存分に鑑賞する事ができます。僕は、ジャコやビトルズがスタジオに籠もって「オ、イーネー!俺様(達)ってやっぱ天才っしょ、フォー!」と作り込んだソノマンマを聴きたいです。それって、ファンとして普通ですよね。全く。。。

以前の記事に書いた「世界中が同じ音質で聴けるようにシテクレー!」 という叫びは、表現者として非常に切実な願いであるでしょう。記事には書きませんでしたが、彼らは「シテクレー!」と叫ぶ前に「みんな仲良く」と付け加えています。つまり、「みんな仲良く、世界中が同じ音質で聴けるようにシテクレー!」と叫んだという事です。「みんな仲良く」は何を意味するのでしょうか? 僕は「各メーカで好き勝手に個性を競わずに(好き勝手テンデバラバラに「良い音」とやらをツイキューせずに)」と言いたかったのだと思います。彼らは「スピーカでもヘッドフォンもそれはそれはもうピンからキリまで聴いてみるのだ、音が違うから」といった趣旨の発言もしています(ちょっとウンザリ気味にね)。

オヂオではなく「音楽」を中心に考えるならば、彼ら表現者が望む完璧な性能を備えたリファレンス装置と再生環境が世界中のスタジオと世界中の家庭に行き渡る事が理想です。しかしこれは、文化水準の非常に高い夢のように理想的な社会主義国家でもない限り実現しないでしょう。ですから僕は、オーディオ界は音楽界と一体となって「音楽再生装置」にある一定の基準を設けるべきだと、以前から言っておるのです。

完璧な技術は存在しません。技術とは常に妥協の産物です。ですから、各メーカが上記の命題に向けて一斉に真剣に取り組んだとしても、何をどのように妥協するかに応じて製品の個性は必ず生じます。我々消費者は、その中から気に入った製品を選べます(しかし、選ぶ事自体あるいはトッカエヒッカエ選んだモノを細かく評価する事が目的ではない。TVを選んで買うのと同じ。本来の目的で使うために買う)。

もちろん、世の中の技術レベルが成熟するにつれてその個性や性能差は収束します。当然です。目指す目的は1つですからね。その段階に入ると、根本的な技術革新でもない限り性能の向上は頭打ちになり、低価格化とコンパクト化に向かい、さらにはデザイン等による差別化へと向かうのが普通です。そして、それではツマラヌと言う少数のマニアック層は、ソレハソレコレハコレとして世間一般に認識された上で(今風に言えばオタクなヒトビトと自他共に認識した上で)、特殊でコアな領域として残るのが自然です。その領域では、本来の目的から如何に逸脱しようが一向構いません。それは個人的な数寄/趣味/道楽/オタクの領域だからです。しかし、業界のプロフェッショナル達が本来の目的を見失ってこぞってそれでは全く困ります。全くです。

オヂオ業界の過去を振り返るに、80年頃までは、各社が極めて懸命に真面目に技術的課題に取り組んでいたように思えます。CDが世に出た82年の段階で、スピーカは今現在と大して変わらぬ基礎的技術(音楽再生クオリティ)レベルに達していたようにも思えます。その後のデジタル音源(CD)の爆発的普及と、電子技術(PC、マイコン技術、デジタルアンプ技術等)の急激な進化を鑑みれば、音楽再生に必須の十分に低い音まで非常に高い再生クオリティを備えた装置を非常に安価に非常にコンパクトに一般家庭に広く提供できたはずです(自動車、カメラ、家電業界の飛躍的技術進化を見れば明白でしょう)。

非常に基礎的な技術が確立され、電子技術の目を見張る進化の下にイヨイヨ本当の成熟段階に入ろうかという時点で、世の中に対する本来の基本的命題をすっかり忘れ、どうもヘンテコリンな(過剰にマニアックな趣味/オタクの)方向に向かいだしたような気がしてなりません。やはり、バブルによる世の中の風潮がそうさせたのでしょうか? その頃から音楽自体も僕には全くツマラナクなったような気もします。あるいは、基礎技術が成熟して各社横並びになったため、より細かい個性の「違い」を目指してどんどん泥沼の深みに嵌り込んだのでしょうか?いずれにせよ迷惑千万なハナシです。ホンマニ。

追記
オーディオ装置とは、制作側と鑑賞側が一体で1つのシステムを成します。アッタリマエですよね。片方だけじゃ意味ないですからね。制作側だけが進化しても、鑑賞側だけが進化しても意味はありません。そのへんも全く乖離しており、それが違って当然と思われている点にも、激しい違和感を覚えます。ドナイナットンネン?です。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
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