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2012年08月14日 (火) | Edit |
人間というのは、オナジ部分よりもチガウ部分に対して必要以上に敏感になる傾向にあるようです。冷静に見れば、大概の場合チガウ部分よりもオナジ部分の方が圧倒的に大きく、また、大概の場合オナジ部分/不変の部分にこそ最重要の本質があるにも関わらず、そのように大きくて重要で根本の部分にはナカナカ意識が向かわず、表層的で微視的なチガイばかりに意識が向かってしまうという事です。

例えば、宗教について考えてみます。例えばお釈迦様やイエス様が説かれた「教え」は不変でありヒトツであるはずです。しかし、彼らの死後、ちょっとした解釈のチガイによって多数の宗派へと分裂を繰り返し、互いにその相違点について激しく攻撃/非難し合ってきました。さらに言えば、何教であれ、それらは根源的には、全ての人間にとって普遍的/究極的に重要であるはずの「オナジモノ」にアプローチを試みるものであるはずなのに、アプローチ方法や解釈方法が異なるというだけで互いに相容れようとはしません。全ての宗教に共通する部分こそが最重要であるにもかかわらず。。。宗教だけでなくイデオロギー集団でも同じです。例えば日本赤軍の場合、矛盾や問題を抱えた資本主義への対抗が本来の目的であったであろうに、やはり多数のセクトへと分裂を繰り返し、セクト間の殺し合いにまで発展しました。彼らも最初は、資本主義の矛盾を打破して全ての人々が平等に幸せに暮らせる社会の実現を目指したはずです。

これらの行動も、一種の「手段の目的化」と言えるのではないでしょうか。人間は、注意しないと、ついつい本来の目的を忘れて手段が目的になってしまうという事です。

この「手段の目的化」即ち「本来の目的を疎かにした「違い」への執着」が多くの「闘争」を招いてきました。「違い」への執着は即ち他者との差別意識を先鋭化し、他者との差別意識は即ち競争意識を生じ、競争意識は即ち権力欲へと転化され、そこに「闘争」が生まれます。人間がもっと「同じ」ところに意識を向けるようになれば、どれだけ人間社会は平和になる事でしょうかねぇ。。。ホンマニ。。

と。以上は前置きです。

オーディオの場合、最も重要であるのは、そこに記録されている不変の内容(音楽家の表現/行為)である事に異論を挟む余地はないでしょう。徒に表層的で微視的な「音」のチガイにばかり意識が向かうあまりに、最重要の「内容」の「全体」を「総合的」により良い状態でリスナの耳に伝達するという本来の目的が疎かにされては絶対になりませぬ。

「チガイ」に過剰に拘泥/執着すると、キリの無い無限地獄へと陥ります。「何を変えても音は変わる」とよく言われますが、そのうち、同じモデルさらには同じ部品(例えばコンデンサ)の個体差にまで云々しかねないように思えます(セクタの分裂が進めば最終的に個人間の闘争に帰結するのとオナジ)。「チガイ」を意識すればするほど、チガイは益々細分化され、チガイは益々大きく重要に感じられ、意識は益々チガイの虜になってしまいます(地獄のループ)。そして「チガイ」しか見えなくなり本来の目的を忘れる。。。それが人間の性なのでしょうかねぇ。。

無限地獄を避けるために重要なのは、「本来の目的」は何なのかを常に念頭に置き、その「チガイ」が、「本来の目的達成」に向けて、「総合的」に見て、どの程度「大きいのか?」「重要なのか?」という観点を常に持つ事です。「オナジ」部分の大きさに対して「チガウ」部分の大きさはどの程度なのか? そのチガイは全体に対してどの程度影響し重要なのか? という観点を常に持たなければ、無限の泥沼に足を踏み入れる事は必至です。さらに、オーディオの場合、そこに不確定要素(体調/気分/環境条件の変動とプラセボ効果)が確実かつ多大に影響するため、問題はさらに泥沼化します。

ただし、末端ユーザが「チガイ」への拘りを「趣味」として楽しむ分には全く問題はありません。鉄道マニアだってそうですよね。

しかし、「趣味道楽」のための道具ではなく「音楽芸術の伝達装置」を本来の目的とするオーディオ装置を職業として扱う業界の玄人さん達(製造者や評論家)は、安易にそうであってはならないはずです。

カンタラを変えたらナンタラカンが「変わり」ました!これは凄いです! という時、その「凄い」という「チガイ」の「大きさ」が「全体」に与える影響はどの程度大きいのか? そこにどの程度の不確定要素(条件変化、プラセボ効果等)が影響しているのか?(本来ブラインド評価が基本です、断じて絶対に!)、音楽家の表現/行為の結果をより良く伝達する上でその「チガイ」は如何ほど重要なのか?????? 玄人さんとして冷静に判断する必要があるという事です。

玄人さんであるべきヒヨロンカは、そのへんを高い見識を持って冷静に評価/判断した上で記事を書くべきでしょう。「チガイ」ばかりに注目して徒に喧伝するのではなく「全体に対する影響の大きさ/重要さ/不確定要素(条件変化、プラセボ等)」を正しく判断して伝える必要があるという事です。二者間の相対的な相違ばかりに目を向けるのではなく、常に絶対的な観点も持つ必要があります。それがプロというものでしょう。以前にも書きましたが、絶対基準を持たぬ徒に感覚的/微視的な相対的比較を繰り返すと、富士の樹海を永遠に彷徨い続ける事になります。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
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