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2012年06月29日 (金) | Edit |
前の記事で「よく考えよう」と書きましたが、誤解を招かぬように、慌ててこの記事を書いておきます。

音楽に限らず、文学であれ絵画であれ、アートに触れているその時は、
考えたら負けです。
どうかそのへんは誤解無きよう。

理性でもって理解とか解釈しようとした瞬間に、最もオイシイ最もジューヨーな最もセーミョーなる部分は、あっという間に手からこぼれ落ちてしまうでしょう。だからハチマルはフニャーーーとモードチェーンジするのよ。

以下グダグダです。暇な方だけ適当に読んでください。

最近はどうか知りませんが、僕が中高生の頃は、国語の授業で文学作品を取り上げて「作者はここでどう考えたか?思ったか?」なんて課題や問題がよく出ました。あるいは「行間を読む」というのもこれに近いと思います。僕はこれを極端に嫌い軽蔑したため現国の試験は最悪でした。。。そんな事をしたら、その作品が持つ最もオイシイ所を味わう事は断じて絶対にできません。だいたい、作者も、そんな事を「考え」ながら書いているわけがありません。そんな事を「考え」ながら書いた作品は文学としては超駄作でしょう。極端な事を言えば、文字で辿れるストーリー自体すら重要ではありません。長大な物語を通して莫大な数の文字を要しながら、言葉では絶対に表せない(作者自身すら確たる事は分かっていない)事にこそ、その作品の真の価値があるように思えます。確かヘッセも、作中の登場人物(自分自身)にそんなような事を言わせていたような気がする。

そんな話を家内にしたら、こんな事が新聞に載っていたと教えてくれました。
中学校だと思うのですが、さる日本の詩人の作品が教科書で取り上げられており、例によって「作者はここでどう思ったか」という例の愚の骨頂問題だか課題が出たそうです。である女の子は、先生の言う事に納得できなかったのでしょう、その詩人に本当にそんな事を考えているのですか?とお手紙を書いたところ、その詩人は「僕達はそんな事を考えながら詩を作っていません。そんな問題が出たら、こう書けば先生が良い点をくれるだろうな。。という答えを適当に書けば良いのではないかな。。。」と答えられたそうです。ほら。やっぱりね。。ハチマルも絶対にそうだと思ってました。。ソンナモンです。ホンマニ。。ハチマルもいちいち怒らずに、そういうふうに上手に答えを書いておけば良い点が取れたのに。。。。クソ。

作家の遠藤周作さんが「最も良い文章が書けている時は自分で書いているというのではなくナニカに書かされているという気がする」といった内容の事をどこかで書かれていました。ね。やっぱり考えてないでしょ。。それこそが、天国と繋がったかと思えるその瞬間こそが、第一次創造の精妙なる瞬間であり、それがあるがために彼らは創造行為を止められないのだと思います。それは人知を超えた瞬間であり、決して理性では到達できない瞬間です。であるからこそ尊く価値があるのです。ハチマルも拙いながら写真作品に取り組む事により、その精妙なる瞬間の片鱗に触れる事はできましたし、オシゴトの技術開発においても、絶体絶命の大ピンチ(年柄年中大ピンチ)で起死回生のアイデアが突然浮かぶ瞬間というのも、正にそのような精妙なる瞬間であったと思います。なんでそんなアイデアが思い浮かんだのかと同僚に聞かれても、自分でもよくわかりませんでした。つまり、人間が何事かを強く求め、全てを忘れて損得勘定一切無く本当に純粋に物事に帰依した時、神様はチョイとしたご褒美をくださる。「求めよ、さらば与えられん」。。それをたくさん集めたのがアートなのだと思います。先に書いたように普通のお仕事も同じです。仕事とは「事」に「仕える」と書きます。出世や上司や立場や損得のためではなく、全てを忘れて純粋に「事」に取り組む時、神様は必ずホレとご褒美を下さります。その瞬間、世界が真っ白に爆発したような悦びに満たされるでしょう。まぁ。。そこに辿り付くまでは地獄ですが。。。ハチマル用語ではこれを「テンゴクトツナガル」と呼びます。芸術とは、他の職業に比べて、それを最も純粋な形態でやりやすいという事なのだと思います(テンゴクツナガリッパナシ?)。我々は、その精妙なる瞬間をスポーツ選手の神業とも思える超ファインプレーにも感じる事ができます。だからこそ人々はスポーツに熱中するのです。

ゲージツカが「テンゴクトツナガッテ」作ったであろう作品を介して鑑賞者が「テンゴクトツナガル」事を、ハチマル用語で「シンクロする」と呼びます。ある意味、彼らの作品は、我々鑑賞者が「テンゴクトツナガル」ための「インターフェイス」であると考える事ができます。ハチマルが「アクセスする」という表現をよく使うのはこのためです。

オーディオ装置とは、突き詰めて言えば、この形而上的インターフェイスたる音楽作品を、我々の耳あるいは意識まで伝達するための形而下的(物理的)インターフェイス装置であると言えるのではないでしょうか。

では、アートを通して作者はそして鑑賞者である我々は、イッタイゼンタイ何を垣間見るのでしょうか。。。。「ソレ」はとにかく、人間にとって、この上もなく大切な事である事は確かです。宗教も、おそらく、「ソレ」により直接的アプローチを試みるひとつの手段なのだと思います。ヨガや座禅もそのメソッドの一種です。セックスをそのメソッドとする宗教すらあります。「ソレ」は科学や「理性」では絶対にたどり着けない領域です。「感性」というのは安っぽく聞こえてハチマルは嫌いです。どうも最初の入口というに過ぎぬような気がするからです。「悟性」という言葉もありますが、定義が人によってマチマチです。

ハチマルは「ソレ」を「セカイノヒミツ」とか「ゲンショノキオク」と呼んでいます。それらは必ずしも美しく心地良いものとは限りませんし、恐ろしくて暗いものでもあります。見たら死ぬぞーーーー。。。というくらいヤバイものでもあるような気がします。世界を素直に感じ取る時、生と死は常に一体だからです。絶対に切り離して感じる事はできません。ですから芸術は必ず死の面を持ちます。死の臭いのしないジャズはつまらんし。。(ジャズについては別の機会に書きたいと思います)。ゲージツカのやっている事を見ると、これ以上逝ったら見たらヤバイ、戻れなくなるカモシレナイ。。。と感じながら、怖い物見たさで限界を超えてしまって破滅する例も多々あるように見受けられます(ジャコとかね)。でも、カッコエーナー。。。ゲージツは怖いんです。そもそも。。偉大なる芸術家というのは繊細さだけでなく強靱な精神力と体力の持ち主ではないでしょうか(ベトさんとかね)。

最後に、
ハチマルは昔から評論家の言う事は一切信用しませんでした。上記の第一次創造の精妙さを終ぞ理解できず、従って第一次創造者になり得なかったがために、評論という職業に就いたのではないかと思わざるを得ないものが多くあるからです。彼らは余りに安易に作品を解釈したり分析したり分類したりします。厄介なのは、そいう安易な「解釈」の方が分かりやすく、読者は簡単に「納得」させられてしまうという事です。アートを「納得」や「解釈」したら、その瞬間に全てオシマイなのに。作者本人にすら確たる事は絶対にワカル事ができないのがアートなのに。。

もちろん中には優れた評論を書く評論家も居ます。ハチマルは、そのような評論の文章は、ある作品をネタにした、元の作品とはまた別の優れた作品として読みます。そうすれば楽しめます。しかし、大概の評論家の言う事は信用ならんと、ハチマルは考えています。

そもそも分からないものを素直に分からないと受け入れて分からない事を楽しめば良いのではないかなぁ。。
ゲージツカは、そもそも分からんから命懸けで探求しとるわけで、分かったらヤリマヘン。あんなシンドイ事。
そいつがホンマニ分かるのはのお釈迦様かイエス様くらいでしょうよ。。

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ジャンル:趣味・実用
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