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2010年09月25日 (土) | Edit |
以前の記事で、「音楽はオーディオから音を出すための道具にすぎない」という某著名オーヂオヒョウーロンカの極論的発言を取り上げました。はっきり申しまして、これはショッキングでしたね。イヤハヤ。

今日はこれとは真逆の極論
音そのものは音楽を伝達するための媒体にすぎない
というオハナシ。

音楽家は「可聴域の音」、画家は「可視域の光」、作家は「言葉」を媒体としてナニカを僕達に伝えようとします。
優れたアーティストは、強烈な「求める意思」(求めよさらば与えられんの「求める」のこと)をよすがに、卓越した集中力と持続力、研ぎ澄まされた「感性」と鍛え抜かれた「技能」を駆使して、往々にして本人も自覚することなく、極限的状態で自らが垣間見た「セカイノヒミツのカケラ」のそのまた「カケラ」を作品に込めて、世俗にまみれた我々凡人に開示してくれます。

ちなみに「セカイノヒミツ」とはハチマル用語です。
「ゲンショノキオク」っていうかぁ~。。「ホンマノホンマノホンマノコト」みたいなぁ~。良く分かんないけどぉ~。。まあそんなような意味だと思ってください。なんじゃそりゃ。

芸術だけでなく、超一流スポーツ選手が極限まで集中した時に見せる最高のパフォーマンスからも、僕達は同様の「ヒミツのカケラ」を感じ取る事ができます。

優れた音楽(優れた才能に恵まれた音楽家が全身全霊を傾けて探求し獲得した音楽)を聴く時、僕にはその「カケラ」がたくさん含まれているように感じられます。僕は、その音楽家が垣間見たであろうものをできるだけ多く感じ取ろうとして、音楽家自身にシンクロしようと試みるのかもしれません。この時「音」は「音楽」を伝達するための媒体に過ぎません。もっと極論を言えば「音楽作品」そのものも、その「音楽家」の極限状態(ハチマル的に言えばテンゴクにつながった瞬間の)精神と「僕」との間をつなぐ媒体にすぎません。もっともっと極論を言えば、それらは全部ひっくるめて「僕」と「セカイノヒミツ」との間に微かな繋がりをもたらしてくれるインターフェイスであるとも言えます。芸術に触れるという事は、極論的に言えば「セカイノヒミツのカケラ」の片鱗に触れるという事だというのが、ハチマル的理解です。また、それは「喜び」や「悲しみ」や「怒り」など、人間の卑近な感情を全て飛び越えた先にあるものと理解しています(漱石の言う「不人情」?)。もちろん聴く側にも、それを「求める」意思がそれなりに必要なのは言うまでもありません。それは音楽に安易な「癒し」や「慰み」を求める行為とは異なると思います。

ちょっとぶっ飛び過ぎましたので「音は音楽を伝達するための媒体にすぎない」のレベルへ戻します。
結論から言うと、
音そのものは媒体に過ぎず目的ではない」が僕の音楽再生装置(オーディオ装置)に対する基本的考え方だと言うことです。
すなわち、僕がオーディオ装置の音質面に求める最重要項目は下記2項目です。
1.情報量: 表現者の意思として刻まれた音が余す事なく伝えられる事 - 可聴帯域の全域が明確明瞭に耳に届くこと
2.情報の正確さ: それらの音が正確に伝えられる事 - 定在波や付帯音や位相の乱れ等によって不自然に聞こえないこと

要は「音」を嗜む(タシナム)ための装置ではなく、「音楽」を伝達/媒介するための装置、それがハチマルの求めるオーディオ装置だと言うことです。同時にそれがハチマル的「ピュアオーディオ」の定義でもあります。
楽しむのは「ココロ」で。。ということ。
装置には余計な事はナニもしないで欲しい。。。汚くても良いからアーティストが媒体に記録した音をソノママ聴かせてちょ。。オネガイダカラ。

なんか、しっちゃかめっちゃかになっちゃいました。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
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