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2011年01月17日 (月) | Edit |
前記事に引き続いて、今回はオーディオ装置の本来の目的である「音楽再生」の理想状態について考えて見ます。

以前の記事に書いたステレオフォニック方式の原理的な問題により、ここでは「音場の再生」という観点を含めません(原理的に「理想的音場再生」を想定できないため)。

で、あくまでハチマル独自の見解としては、「記録されている全ての音の信号波形をそのまま正確に耳に届けられるに超した事はない」という事になります。当然と言えば当然。。。。ただしこれはあくまで「観念的理想」であって好みの問題はモチロン別です。

しかし、そのような再生音では「音がツマラナイのでは?」と思われる方が多いかな? ハチマルも当初はそう思っていました。が、LEANAUDIOトライアルを通して経験を深めるにつれ、結局それが最も「音楽が聴きやすく、楽器音/響きも自然に聞こえ、すなわち音楽を楽しめる」状態ではないかと確信するに至りました(再三書きましたが、普通に考えれば至極当然)。モチロン好みの問題を完全に排除するつもりはありません。しかし「好みの部分」を徒に追いかけ回す前に、まず理想状態にできるだけ近付けた上で、そこに適度な好みを反映するくらいのアプローチで良いのではないかなぁ。。と考えています(ハチマルはね)。ハチマルの経験では「好み」の部分は気分や楽曲その他外的影響によって結構フラフラと変動します(イヂリたくなる→イロイロカエル→堂々巡りして一巡→元の状態に、、キリが無いので最終的に気にしない事にする)。しかし上記の理想状態へ近付けるという根幹的部分は気分や条件が変わっても頑として揺るぎません。

よく言われるのが「音楽は芸術だから(数値的に正確にというのではなく)「芸術的?」に再生すべきだ」「アーチストの「情感」を熱く伝えられるのが良い音だ」という考え方です。

でもチョット待ってください。アーティストが命懸けで獲得した独自の「表現」(情感とかいうとベタベタだから。。)を記録した媒体は「芸術作品」であるわけですが(何を以てゲージツとするかは難しいが、ともあれ)、これを、こと音楽に関してはそのアーティストの足下にも及ばない我々鑑賞者が(だからこそ時間を割いて聴くわけですが)、上記のように正確に再生する以上に「芸術的?に」(何をもってゲージュツテキと言うか?)「情感たっぷりに」(アーティストの表現以上に切々と熱く?)再生するとはどういう事なのか?優れた音楽家が遺したこの上もなく貴重な「芸術」であるからこそ、正確に再生して素直に聴きたいなぁ。と思います。ハチマルは。というか、そうやって聴くのが一番楽しいし気持ち良いし音ソノモノも自然に聞こえるし長時間聴いても疲れないし何よりも音楽が聴きやすい。あくまでハチマルはね。

もし正確に素直に再生しただけではツマラナイと感じるのであれば、何もワザワザその作品を聴かなければ良いだけの事ではないのか(時間の無駄でしょうというか苦痛でしょう)?

心から尊敬するアーティストの、本当に「聴きたいと思う」音楽であれば、素直に聴いても十分に楽しめるどころか、逆に要らぬ事をせずに聴きたくなるのではないのか?(だって、正確に再生して要らぬ事をしない方がアーティストの表現/行為を労せず細部まで聴き取りやすいし)

もしかして「音楽聴くだけならラジオで十分」とは「本当に好きな音楽を聴く時はオイラだってラジオとかラジカセ的普通の音で聴くよ」という意味なのか? では、それ以外の場合にはイッタイ何を聴いているのか? あるいは何を成しているのか?

装置を調整して好みの音を創出するという一種の創造行為なのか? なるほど。先ほどの「ゲージュツテキ」とはそういう意味か?アーティストの表現に素直に耳を傾けるのではなく、自分勝手に熱くゲージツ的に「盛り上げる」という事か?

であるとするならば、素直に表現者の表現/行為を鑑賞する事を望む者のための装置と、そのように装置または音ソノモノを趣味とする者のための装置は全く別物と考えた方が良くはないか? そもそも目的が全く異なる。そのへんがしっかりと区別/認識されていないのではないか?

しかし現在「オーディオ」というと後者向けの物という考え方に偏りすぎていないだろうか? あるいは思い込まされてはいないだろうか?音楽とはそういう風に聴くもの。オーヂオとはそういう風に嗜むためのもの。。。と。どうも画一化され過ぎているような気がしてならない。何者かによって恣意的に操作されているのではないかと疑いたくもなる。

「音楽を聴く」という事において、後者の方がどちらかと言うとニッチだと思えるのだが(あくまでハチマルにはね)。

いや、根本的なところがつい気になってしまうのが僕の悪いクセ。ハチマルの疑問を素直に書いただけですので。。。。


追記1
もちろん、往々にして音楽が媒体に理想的な状態で記録されているとは言えない場合がある(というか真の理想状態はあり得ない)。何もガチガチに信号通りに聴かなければならないと考えているわけではない。あくまでも必要十分なレベルでということ。しかし、我々には媒体以上に「正」の状態を知る術はないというのは確か。

追記2
もちろん個人的に音楽をどう聴こうが個人の勝手である。しかし、目的の違いを業界全体として(製造側も消費者側も)きっちりと認識しておく必要があるのではないか?例えば「リスナーズ オーディオ」と「エンスージアスティック オーディオ」として。互いに悪影響を及ぼし合わないためにも。

追記3
もしかして「リスナーズ オーディオ」を望む人間の方が少数派なのだろうか? 見渡すと寂しい。まあしかし、以前からこの手のオーディオに対する根本的な疑問を投げかける記事を書くとテキメンにランキングのINPOINTが増加する。と言うことは少なくとも何名かは同じように感じている人々が存在するというのも確か。かな?

追記4
オーヂオイヂリをやってみて、好みの部分をイヂルのは「エンドレス」だと痛感した。「好みの部分」とは基本的な音楽再生クオリティの向上とは別の部分。単に「好み」に関係する部分のこと。「どっちでも良いけで、どっちかというとコッチかな」というやつ。気分や環境条件や楽曲によって「好み」の部分はコロコロ変動する。しかも基本クオリティの向上とは異なり、「絶対コレ」というのが無い。まあ、だから「好み」なのだが、こいつを追いかけ回すとキリが無い。同じところをぐるぐる回りだす(富士の樹海か?)。だからアクセサリはよく売れる?

追記5
ハチマルの場合、基本クオリティ部分の例としては「ニアフィールドリスニング」「密閉型」「吸音材タップリ」「デジイコによる30HzまでのF特/位相フラット」といったところか。これらは頑として揺るがない。これらは「好み」ではなく2年かけて「音ではなく音楽を聴いている時に半ば無意識に覚える違和感やフラストレーション」を排除してきた結果として得られたもの。
これに対して「好みの部分」は、「Icon vs TU-870」(最近ドッチデモ良いと思う)、「Alpair6 M vs P」(これもドッチデモ良い)あたりかな? 楽曲によってはコッチの方がチョット良いかな?と思う時もあるが、別にわざわざつなぎ換える程の事でもないなぁ。たぶん気分や体調によっても気が変わるし。音楽を楽しむ上でそんな違いは大して重要だとは思えないし。。なによりメンドクサイし。。。という程度のもの。

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