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2014年03月22日 (土) | Edit |
どのような機械を設計/開発する場合でも、まず最初に目的(何のために、どのように使われるのか)を明確にしないと、スットコドッコイな代物ができあがります。そして、目的がグルッと180°異なれば、求められる機械もグルっと大きく異なって当然です。

(A)なんかM (B)なんかA

以下は、4年間のLEANAUDIOトライアルにおける僕の実体験に基づく結論です。

「音」ではなく「音楽」を楽しむための装置で重要な事
☆ ベトベンであろうがマドンナであろうが、西洋音楽の重要帯域は40Hz~10kHzであり、この帯域の音をリスナの「耳」まで周波数/時間ドメイン的に正確に、低歪み/低ノイズで届ける事が、家庭用オーディオ装置に求められる最も基本的な命題である(あくまでも実用的に必要十分なレベルでね)。

☆ 特に、西洋音楽で重要となる100Hz以下の周波数/時間ドメイン的に正確な再生をコンパクトで安価な機器でアッタリマエに提供できるようにする事がスピカシステムにとっての最大の技術課題である。

☆ 家庭における音楽再生では、部屋の音響特性が最大の影響因子となる。この点においてニアフィールド リスニングとデジタルイコライザによる音場補正は決定的に有利であり、さらに言えばヘッドフォン/イヤフォン再生が理想的である(究極のニアフィールド)。

- 装置由来の音の癖(個性、付帯的な音等)が過剰だと音楽の内容は確実に聴き辛くなる。マニヤ達の言う「原音再生」たら「高忠実度再生」たらナンタラカンタラといった大層な事では全くなく、装置は記録されている重要帯域(40Hz~10kHz)の信号を必要十分なレベルで素直に自然に正確に明瞭にリスナの「耳」に届けてくれればそれで良い。SP時代の録音や劣悪な海賊版ライブでも無い限り、それで全く十分に「良い」音で音楽を楽しめる(そのためには素直に作られた高品位なドライバが最重要)。

- 最重要基本命題(☆)を疎かにして装置の微細な個性を追い求めるのは全くの本末転倒であり、全くの趣味/道楽の領域である。

- 臨場感(仮想体験、アタカモ。。。)を徒に求めた過剰な空間表現はかえって音楽を聴き辛くする。また、一般の音楽愛聴者(音楽家を含む)のオンヂョに向かう意識は極めて希薄であり(仮想体験を求めない、スピカから音出るのはアッタリマエ)、必ずしも2本のスピカの中央に陣取ってじっと聴くわけではないし、マニヤのような聞き方がエライわけでもジョートなわけでもナンデモナイ。

- 最重要基本命題(☆)を疎かにして過剰に空間表現を求めるのは本末転倒であり、全くの趣味/道楽の領域である。

補足
諸々の点でヘッドフォン/イヤフォン再生はスピカ再生よりも圧倒的に有利である。ただし、スピカ再生を前提に制作された媒体を自然なセパレーションで再生するための信号処理面での改善が求められる。制作段階からヘッドフォン再生を基準に制作されるようになれば理想的である。

シツコク再再掲
「ぼくたち指揮者は一生懸命音を混ぜようとしているのに、どうして君たちオーディオマニアはそれを分解して聴こうとするんだい?」(小澤征爾さんの発言らしい)

「空間表現の追求など不可能を無理して求めているだけであって失うものの方がはるかに大きい、そもそも現代のオーディオは完全に間違った方向に走っている。」(とある演奏家の発言らしい)

「良いスピーカーでゴージャスサウンド聴くのはオーディオマニアだから自分はこれで十分」(矢野顕子さんの発言らしい)

「みんな仲良く、世界中が同じ音質で聞けるようにしてくれー」(とある日本のミュージシャンの発言)

「音楽家の多くは高精度のハイファイ音を楽しむのではなく、音楽の本質を聴く。したがって、彼等は名演奏であれば、SPから再生されたCDでも満足して聴いていることが多い。」(論文「音楽演奏現場における楽音の実態と音楽家のオーディオに対する感覚について」(南 弘明、東京藝術大学音楽学部、電子情報通信学会技術研究報告. EA, 応用音響 98(157), 45, 1998-06-29)の抄録より抜粋)


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2014年03月09日 (日) | Edit |
前の記事からの続きです。
もう一度「音楽を聴かずに音を聞く」とはどういう事かを、図を使って考えて見ます。

前の記事では、リスナの意識は再生音を起点として上層へと遡り、作者のプロセスを追体験すると書きました。
なんかM
(D)は(C)より上層をリスナに伝達するために存在し、(C)は(B)より上層を下層へ伝達するために存在し、(B)は(A)より上層を下層へ伝達するために存在し、最終的に(A)は作者より上層(超感覚界のナニカ)を下層へ伝達するために存在します。各層は、リスナの意識を1つ上位の層へと誘うインターフェイスであり、作品全体はリスナと作者の間を結ぶインターフェイスであり、さらに言えば、作品と作者はリスナを超感覚界に接続するためのインターフェイスであると見なす事ができます。自分が真に求める本当に大好きな音楽を全く素直に聴くならば、そしてそれが優れた作品であるならば、意識は自然と上層へと導かれます(だからハチマルはフニャーーとモードチェーーーンジする)。

これに対し、オヂオマニア達の典型的な行動や言動からは、下記のような意識の流れが明らかに見て取れます。また、彼らの行動や言動は不気味なほどに画一的であるように僕には見えます。
なんかA
彼らの意識の重心は(D)再生装置(物質界)に強く偏向しています。とにかく装置の微細な違い(コセー)をこと細かに聞き分けようとする意識が異常に強く働くという事です。さらに、その根底には、常になんか新しいソーチを買いたいという強い物欲衝動が働いているように見えます。それこそが彼らの行動の根底にある真のモチベーションではないかとすら思えます(だって、新しいソーチを買うには今のソーチと音がナンカ違ってもらわないと困りますから)。。。

作品に対しては、装置の個性が出やすい(C)音場響き(リンヂョカンとかフンイキ)および(B)音色(オトソノモノ)の領域に強い興味を示し、どの装置で再生しても差の出にくい(A)以上へと向かう意識は、それよりも下層へ向かう意識に比べると明らかに希薄です。従って、彼らの意識は上図とは逆に下層へと向かうかのように僕には見えます。上図とは向きが180°グルっと異なるという事です。

これではまるで、作者ではなくオヂオヒヨロンカを追体験しようとしているようなものです。

オヂオヒヨロンカ達は職業柄、装置の違いをこと細かにキキワケテ記事を書かざるを得ません。例え同じに聞こえたとしてもナンカ書かないとイケマセン。。。。当然ですが、それは本来の目的である「音楽を鑑賞する」ための聞き方(意識の置き方)とは全く異なります。マッタクです。グルっと180°違います。あくまでも装置をシチョーしてナンカ記事を書くための聞き方だという事です。そして、マニア達は、そのようなヒヨロンカ達の聞き方をそのまま追体験しているかのように僕には見えます。ハチマル用語でこれを「オヂオヒヨロンカごっこ」と言う。

彼らにとって憧憬と敬意の対象(ヒーロー)はアーティスト(または作品)ではなく、ヒヨロンカ(または高級装置)であるようです。

マニヤ達は、憧れの高級装置をセッタクのゴヂャスなリスニングルームで片っ端にシチョーしてこと細かにキキワケて形容詞をいっぱい並べるそのようなオヂオヒヨロンカ達に強い憧憬の念を持ち、そのような聞き方がまるでエラクてジョートな音楽の聞き方のお手本であるかのように思い込まされているようです(ショップもこれを笠に着て「音楽をマトモ(どこがマトモやねん?ですが)に聞くなら最低ヒャックマンエン」と来る)。オヂオヒヨロンカあるいはソーチ自体を憧憬の対象(ヒーロー)に据えるこの傾向は、彼らの言動に見え隠れする音楽または音楽家に対する傲慢な態度にも現れています。

全体として、彼らは、作者自身にも確たる事は良く分からない精妙なる「高み」に向かって低層にある自分から真摯にアプローチするのではなく、音楽を低層にある自分にも分かりやすい卑近なレベル(装置由来の音響現象とか癒しとかフンイキとか)へと傲慢にも引きずり降ろそうとする傾向が見られます(分かりにくい高みにあるものを卑近なレベルに引きずり降ろして安直に分かったような気になろうとする傾向は、最近の世の中全般にも強く感じられる)。

ここで音楽家達の発言を再掲します。以上と照らし合わせて、もう一度彼らの発言についてよく考えて見てください。
「ぼくたち指揮者は一生懸命音を混ぜようとしているのに、どうして君たちオーディオマニアはそれを分解して聴こうとするんだい?」

「空間表現の追求など不可能を無理して求めているだけであって失うものの方がはるかに大きい、そもそも現代のオーディオは完全に間違った方向に走っている。」

「良いスピーカーでゴージャスサウンド聴くのはオーディオマニアだから自分はこれで十分」

「みんな仲良く、世界中が同じ音質で聞けるようにしてくれー」

「音楽家の多くは高精度のハイファイ音を楽しむのではなく、音楽の本質を聴く。したがって、彼等は名演奏であれば、SPから再生されたCDでも満足して聴いていることが多い。」


もちろん、音楽をどう聞こうが、個人の勝手です。
しかし、
もし僕が音楽家であったなら自分の作品がそのように聞かれる事は悲しいですし、もし僕が教育者であったなら生徒達にはそのような音楽との接し方を絶対にして欲しくありません。音楽は我々人間に最も直接的に働きかけ得る表現形態です。多感な青少年少女の時期に音楽をあのような態度で聞く習慣が身に付いてしまうと、文学を含む他のアートとの接し方にも大きく悪影響を及ぼすでしょう。ショップや業界には、これから音楽を真剣に聴き始める若い人々や、音楽をよりよく聞こうとしてちょっと上等なオーディオ装置の購入を検討する人々(例えばLEANAUDIO着手前の僕とか)を、ソチラ方面の魔境に大っぴらに引きずり込まないで欲しいと願います。また、そのような人達のために本当にマジメに作られた妥当な価格の真のオーディオ製品が各社から出回るようになって欲しいと願います。そして、ヂャナリズムには、マニア視点(コマケーナンタラカンとか)ではない本来の音楽視点から、そのような装置を正しく客観的に評価して人々(マニアではない)に真に有用な情報を提供して欲しいと願います。


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2014年03月07日 (金) | Edit |
「音楽を聴く」ってドーユーコトなの?
例によってハチマルの独断的直感的洞察です。

下の図について上から順番に見て行きます。

なんか1

セカイノヒミツとか
作者は、五感では捉えられない、言葉では言い表すことのできない領域(超感覚界)にアクセスし、「ナニカ」(ハチマル用語で「セカイノヒミツ」)からインスピレーションを得ます。ミューズが舞い降りる、とか、神の啓示を受ける、とか、ハチマル用語で言えば「テンゴクトツナガル」というやつです。キタキタキタキターーーーー!俺様って天才フォーーーー!の瞬間です。しかし、向こうから来てくれるわけではありません。常人の域を超えた強烈な求める心(探求心)や集中力や持続力に対する神さんからのご褒美みたいなものではないかと思います。

作者
で、作者は、そのようにしてかき集めた得も言われぬ精妙なるナニカ(ハチマル用語でセカイノヒミツのカケラ)をヒトが知覚可能な感覚界の物理現象(色即是空の「色」)に「翻訳」して、我々ボンクラどもに垣間見せようとします。ドヤ!と。それが彼らのオッシゴトです。

以下、音楽作品に限定したオハナシになります。

(A)
作者は具体的な翻訳作業に入ります。それが作曲ですね。ベトベンの領域です。これによって音楽の三大要素(リズム、メロディ、ハーモニー)と構成が決まります。作品の内容を成す核の部分と言えるかもしれません。のだめカンタービレの千秋君がスコアを時にフンフンと楽しそうに、時にズドーンと打ちのめされたりしながら読んでいるの見ると、すごく羨ましく感じます。僕もあのように譜面を楽しめたら、他者による演奏を媒介せずに、聴覚を媒介せずに、より直接的にベトベンにアクセスできるのに。。。そう考えると、この後のプロセス、つまり「音響現象」自体はインターフェイスに過ぎぬのではないか?という考えもふと浮かびます。

(B)
上で作られた内容を耳に聞こえる「感覚界の物理現象(空気振動)」に「変換」する作業ですね。作曲者自身が演奏に関与する場合もあれば、クラシック曲のようにそうではない場合もあります。ここでは、作曲された内容を「音」としてより鮮鋭により効果的により分かりやすく人々に伝えるために、スコアには書ききれない部分が奏者達によって補われます。音色とかタッチとかニュアンスとかテンポのゆらぎとかですね。作曲者自らが演奏に関与しない場合、奏者の解釈が加わります。また、録音作品の場合は、コンソールで各種の効果が加えられる場合もあります。

(C)
生演奏であれば、ホールで(B)を直接聞きます。しかし、CD等の媒体として作品を完結させる場合、人々が家庭の再生装置で自然な雰囲気で聞けるように、残響効果とか音場効果がコンソールで適度に加えられ、各種の調整を経て作品が完成します。図では、A,B,Cを含む赤枠の正三角形がCDなりLPなりの作品媒体を表します。

(D)
我々は各自の再生装置を使って、媒体に固定された作品を再び音に変換します。この際、装置や再生場に固有の影響がどうしても発生してしまいます。これは本来、無いに超した事はない必要悪であると言えます。しかし、現実的には完全に無くす事はできませんし、制作~再生システムトータルでソレを最小限にしようとする努力も払われていません。この為、媒体の制作現場では未だに様々な妥協が強いられています。それに対する叫びが「みんな仲良く、世界中が同じ音質で聞けるようにシテクレー」です。世のオーディオ技術者は、これに応えなければなりませぬ。身勝手なナンタラカンの尻尾をオッカケマーシテル場合ではありませぬ。アーチストさんがスタジオでナンタラカンを思う存分追究してソレをそのまま人々に伝えられるようにせなイカンと思うぞ。

リスナ
リスナは、媒体を再生した音を起点として上記のプロセスを遡る事で、作者が超感覚界からドヤ!と持ち帰ったナニカ(セカイノヒミツノカケラとか)を追体験します。極論を言えば、再生装置→作品→作者の全ては、リスナの意識を上層へと導いて超感覚界のマジカルミステリーツアーへと誘うための一種のインターフェイスであると言えます(図の右側の矢印)。これは音楽に限らず、どのアート作品でも同じでしょう。僕がアートに触れる際に「フニャーーーー」とニュートラルにモードチェーンジするのは、意識をスコーーーンと上層へ突き抜けやすくするためだと思われます。また、音楽を最も集中して楽しめている状態では意識から音が消え失せる(「聞く」という意識が消え失せる)ように感じるのも、そういう事だと思います(ハチマル用語のDMA (Direct Music Access)あるいはシンクロ)。

以上は、僕の体験に基づく直感的洞察です。他にも解釈はイロイロあるでしょう。皆さんも考えてみてください。
ただし、音楽を聴いている時にソンナコト考えたらアキマセン。お風呂とかベッドとか電車の中で考えましょう。

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2014年03月05日 (水) | Edit |
考えてみよう!

なんか1


「オヂオマニヤは音楽ではなく音を聞いている」と言われるのはナゼか?
音楽家達がナゼ下記のように発言または行動するのか?
上の図を見ながら考えてみよう!

「ぼくたち指揮者は一生懸命音を混ぜようとしているのに、どうして君たちオーディオマニアはそれを分解して聴こうとするんだい?」
(小澤征爾さんの発言らしい)

「空間表現の追求など不可能を無理して求めているだけであって失うものの方がはるかに大きい、そもそも現代のオーディオは完全に間違った方向に走っている。」
(とある演奏家の発言らしい)

「良いスピーカーでゴージャスサウンド聴くのはオーディオマニアだから自分はこれで十分」
(矢野顕子さんの発言らしい)

「みんな仲良く、世界中が同じ音質で聞けるようにしてくれー」
(とある日本のミュージシャンの発言)

「音楽家の多くは高精度のハイファイ音を楽しむのではなく、音楽の本質を聴く。したがって、彼等は名演奏であれば、SPから再生されたCDでも満足して聴いていることが多い。」
(論文「音楽演奏現場における楽音の実態と音楽家のオーディオに対する感覚について」(南 弘明、東京藝術大学音楽学部、電子情報通信学会技術研究報告. EA, 応用音響 98(157), 45, 1998-06-29)の抄録より抜粋)

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2014年03月04日 (火) | Edit |
前記事への追記として。。。

勘違いされるといけないので急いで追記しておきます。

製品を全てブラインドで選べと言っているのでは決してアリマセン。

ブラインドで評価しないと分からないような、諸々の変動要因や潜在的態度の影響に埋もれてしまうようなコマケー違いに際限なく拘る(ツイキュする)のは、「趣味」とは言え、賢明な行動とは言えないのではないか。

事実を明らかにせず、そのような行動を徒に奨励するようなヂャナリズムの安直なあり方は問題ではないのか?普通、ヂャナリズムは業者や大衆の行き過ぎた行動に対して抑止力として働かなければならぬのだが。。

オヂオを「趣味」とするならば、とういか「趣味」とすればこそ、もっと実り多く効果的な金とか時間とか頭の使いようがあるのではないか?「趣味」とは言え、総じて論理や思考が欠落し過ぎ(ナイーブ過ぎ)でないか(コマケー電気理論とかではなく、もっと基本的で根本的なトコロで)?

と言いたいのです。

余計なお世話かもしれませんが。。。

「自分」でよっく考えてみてください。

この業界、ヂャナリズムは全くあてになりません。

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2014年03月03日 (月) | Edit |
ヒヨロンカやマニヤ達が電線やナンヤカンヤをトッカエヒッカエして「ナンタラ感が激変しました!」と自信満々に言う時、そこには必ず思い込みや先入観(プラセボ効果)が含まれます。人間である限り、この影響から逃れる事は絶対にできません。ゼッタイニ。ましてや、様々な変動要因に比べて非常に微小としか考えられないようなチガイに拘泥するオヂオのヒカクシチョーにおいて、この影響は我々の想像を遙かに超えて大きいであろうと考えるのが極めて当然でしょう。

という事で、今回は、社会心理学の分野で開発された「潜在的連合テスト」に関するオハナシです。

このテストに関する詳細はコチラのPDF「潜在的連合テスト(Implicit Association Test)の可能性」を参照してください。
このPDFによると、
「潜在的連合テスト(IAT)」とは、
様々な社会的対象に対する潜在的態度を測定することができる手法
「潜在的態度」とは、
人々が意識することができないが所有している態度であり,人々の日常生活における様々な行動に影響を与えると考えられている。
だそうです。フムフム。興味深いデスネ。本人も気付かない無意識の態度ほど恐ろしいものはアリマセン。さらに集団的無意識はもっと怖くて厄介です。本人達に悪意は全くないのですからメッチャ怖いです。クワバラクワバラ。。。

それはさておき、
僕は以前から、不思議の国のオーディオを取り巻く状況は、人間の集団的行動の不可思議さを研究する上で恰好の材料になるのではないかと考えています。そういう意味で、社会心理学的アプローチは非常に有効かもしれません。

以下では、IAT(潜在的連合テスト)の具体的な事例として、3月2日の毎日新聞朝刊で見付けた興味深い記事をご紹介します。記事のタイトルは「時代の風:女性の社会進出=元世界銀行副総裁・西水美恵子」です。ネットではコチラで読めます(全文を読むには会員登録が必要)。

著者は、世界銀行の管理職研修において、女性職員に対する差別を改革するための一環として実施されたIATの簡易版を受けた事があるそうです。
そのテスト方法とは、
1)絵を掲げた人が被験者の前に現れて退場
2)次に、もう1枚の絵を掲げた別の人が同じように現れて退場
3)被験者は「良い」と感じた方の絵を選ぶ
コレダケ。
このように「2枚1組みの絵を1枚ずつ見て、良いと感じた方を選ぶ」というテストを、あきるほど繰り返すそうです。オヂオと同じ。

で結果はどうであったか。。
結果の発表となり、最初の1組の得点が公表されて2枚の絵が初めて同時に並んだ。その瞬間、うめくようなどよめきが起きた。2枚の絵は同じ絵だった。誰一人それを認知せぬまま1枚の絵を選んでいたのだ。

そして、各組の結果が次々に発表されるたびに、被験者達はますます打ちのめされる事になります。なぜならば、
全員が、絵ではなく、絵を掲げた人を選んでいたのだ。私自身も含めて、研修生の大半が、女性より男性が掲げた絵を選び、アジア・アフリカ系の有色人種より白人が掲げた絵を選んでいた。
被験者達は、さぞかしショックを受けた事でしょう。どしぇーーーーーーーーーーーーー!デスヨ。ホンマニ。無自覚のバイアスは怖い。。オヂオなんかバイアスまみれとチャウ?

例えば「絵」を「音」に置き換えても結果は同じでしょう。これは、2本のデンセンのどちらが良いかをヒカクシチョーするという、マニヤ達の大好きな行為と同じ事です。この場合、絵を掲げた人の人種や性別やルックスはデンセンの価格、ブランド、意匠やナンヤカンヤに相当します。そして、2つの音が全く同じであっても、ヒトは値段やブランドの影響を無自覚に受けて、どちらかの方が「良い」と感じて(選んで)しまうという事です。このように考えると、ブラインドで評価しない限り「ナンタラ変えました!カンタラが激変しました!」が如何にあてにならないかが伺い知れます。自分自身ではブランド等の先入観を完全に排除して真正直に聞いたつもりであっても、それは信用できません。何故ならば、自分の潜在的態度(無自覚のバイアス)を自分自身で認識して抑制する事はできないからです。何人たりとも、この影響から逃れる事はできません。ナンピトタリトモ。。。ですから、際限なくコマケー表層的/微視的オトのチガイの泥沼に意識がどんどん陥ってしまう事(つまりツイキュとやら)の危険性と不毛さについて冷静に考えてみるべきでしょう。ヂャナリズムが警鐘を鳴らさんかい。。。ですが、逆に煽っているので手に負えません。ドシタモノカ。

まぁ、やっている本人達が、ソンナモン百も承知の上で楽しいからやっているというのであれば、それは「趣味」ですから別に構いませんが、それがツイキュとかエラクてジョートな行為であるかのように世間に喧伝される事、また、そもそも効果が曖昧であるが故の異常な値付け等、そのような傾向によって一般の人々にとっての技術と市場の健全な発展が阻害される事はゼッタイニ看過できません。プリプリ。。

著者は以下のように結んでいます。
自分の幽霊を見たような思いに鳥肌が立った。吐き気を覚えた同僚もいた。キューバと北朝鮮を除く全世界の加盟国国民が働く世界銀行。その多民族組織を率いる管理職の心に、おのおのの性別や人種に関わらず女性と有色人種への偏見が潜む。この事実を無視したらリーダー失格、真っ正面から向き合うしかないと、皆で眠れない一夜を語り明かした。管理職が共有したこの恐ろしい体験は、女性問題解消に本腰を入れる原動力のひとつとなった。
吐き気がするほど恐ろしくてショッキングな体験だったと思います。

家族か誰かに手伝ってもらってブラインドテストをやってみましょう。そうしましょう。。。コワイデスネーーー。

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2014年02月26日 (水) | Edit |
なんで偉そうなのか?の続編です。

今さら言うまでも無く、「オヂオマニヤは音楽ではなく音を聞いている」と昔から繰り返し言われてきた事でしょうし、僕も彼らの言動および行動の端々から強くそのように感じます。

彼らの多くは、別段音楽に強い興味があったわけではなく、装置(メカ、ブツ)への強い興味からオヂオ趣味に手を染めたのではないかと思われます。全般的に興味の重心は音楽よりも装置(ブツ)に大きく偏っていると言えるでしょう(CDやLPを何千枚収集していようがね)。僕自身、技術少年であった中2の時にその轍を踏みかけた事があるのでよく分かります。そして、オヂオザッシを読みふけり、オヂオヒヨロンカに強い影響を受けてしまうわけですが、その結果として、上等な装置を鳴らすために優秀録音盤を収集し、表現者の意図とは無関係な装置由来の音響現象の微視的/表層的違い(ソーチノコセー)をヒヨロンカのように微に入り細に入り聞き分け、ヨイオトをツイキュする事がすなわち音楽を鑑賞するエライ方法なのだと(聞き分けられないのはダミミでハズカシイ事なのだと)、すっかり勘違いさせられているように僕には見えます(これが業界の商業的戦略であったのかどうか?そこまで賢いようには思えないが)。しかし、それは「音楽をマトモに聴く」とは異なる趣味的な「オヂオ愛好行為」に過ぎません。

彼らの多くにとっては、「音楽を聞いていない」と言われる事は心外であり、何故そのように言われるのか、真に理解はできないかもしれません。音楽を聞くにはまず音(空気の振動)を聞くのが当然ではないか。。。。と。何故理解できないかというと、そもそも意識の置き所(焦点)あるいは拠って立つトコロが根幹からグルッと180°異なるからです。つまり、装置自体に強い興味を持つ以前に、オヂオザッシやオヂオヒヨロンカの影響を強く受けてしまう以前に、自然かつ自発的に自分なりの価値観で音楽(自分は何が好きなのか?)を選択して自分なりの方法で夢中になって大好きな音楽を聴くという極めてアッタリマエの経験を不幸にして十分に持たなかったからです(オヂオザッシに書かれている偏狭な音楽の聞き方しか知らない、タブン)。

以前にも何度か書いたように、そんな彼らと言えども、彼らのような再生音楽の聞き方が、音楽家達の再生音楽の聴き方から乖離しているという事は認識できるようです(実際には、傲慢にも、音楽家が彼らから乖離していると、彼らは言う。さらに、音楽家達のそのような態度をオヂオに対して傲慢だと、彼らは言う。イヤハヤ)。しかし彼らは、その違いを専ら表現者と鑑賞者という立場の違いによるものだと都合良く解釈します(得意技デスネ)。すなわち、自分達こそが鑑賞者を代表する者達であると(これがエラソーの根源デショ)。しかし、僕に言わせれば、彼らが乖離していると言う音楽家達の再生音楽の聞き方は、僕自身を含め僕の身近にいる非オヂオマニアの普通に音楽を聴いている人達と基本的に同じです。オヂオマニアの方が乖離しているとしか見えません。彼らの言う「マトモに音楽を聴くなら最低ヒャックマンエン」の「マトモ」が全く「マトモ」ではなく、彼らが乖離していると言う音楽家達の聴き方が全く「マトモ」であるように思えるという事です。

余談になりますが、以前の記事で紹介した小澤征爾さんや矢野顕子さんのソーチだってせいぜい20万ソコソコですよね。以前から言っているように、技術的内容から考えてそのへん(家庭用液晶TVの価格レンジ)がリーズナブルな上限だと思います。

彼らが同好のコミュニティの中だけで世間一般に干渉する事なくやる限りにおいてはヒャックマンエンでもヒャックオクエンでも何をどう聞こうが何も問題アッリマセン。好きでやっている「趣味」ですから。しかし、彼らのやっている偏狭な価値観に基づく「オヂオ愛好趣味」が一般のオーディオ技術に余りに強く影響してきた事、そして未だに影響している事は問題だと思います。そして、音楽とはそのように聞くのが偉くて、クラシックは偉い音楽であり、そのように聞かなければならないのだといった偏狭な認識が、一般に(特にこれから音楽を聴き始める青少年少女達に)悪影響を与えてしまう事を僕は何よりも嫌います。また、真性理科系中学生であった頃にビトルズ体験をきっかけとして音楽だけでなく文学、絵画、写真をはじめとするアート全般への興味を一気に深め(世界観が一気に2倍に拡がり)、おかげで今まで多くの楽しみや歓びを得てきた僕としては、我々人間に最も直接的に働きかけ得る表現手段すなわち「音楽」を大衆へ伝達するという極めて重要な役割を担うオーディオ技術が真に真っ当であって欲しいと強く願いまする。ホンマニ。だからシツコイ。

追記
最初は音楽をよりよく聞きたかっただけなのに、オヂオザッシとかショップのオッサンとか周囲のマニヤ達がやたらエラソーに言うので、そう思い込まされて、なんか変だ変だと思いながらも例のツイキュとやらを今まで長年にわたってやって(やらされて)こられた方も多かろうと思います。今一度、自分自身でよく考えてみてください。「自分」はどう思うのか、「自分」で考える事が何よりも重要です。そうして、「自分」の大好きな「音楽」を「自分」なりに存分に楽しんでください。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2014年02月22日 (土) | Edit |
約5年前、必要に迫られて、それまで全く興味のなかったオヂオを取り巻く状況を覗いてみて、大いなる違和感を覚えたというか、全く呆れたわけですが、オヂオ趣味って他の趣味に比べてなんだか「エラソー」にしているなぁ。。という感想も持ちました。

なんなんだろう、この「エラソー」な感じは? 大型家電量販店のオヂオコーナーの店員のオニーサンですら、他の店員さんに比べてなんだか態度がエラソーでした。TV売るのと何がチャウというのか? これぢゃぁ、専門店が「音楽をマトモに聴くなら最低ヒャクマンエン」といけしゃーしゃーと抜かすのも当然か?。その「マトモ」が僕には到底「マトモ」な聴き方とは思えないのですが。。。

どして?なんで?シュミノオーサマなの?王様?どこが?サイテーヒャックマンエンでお金を一杯払うから?それならスーパーカーマニアの方がもっと偉そうにしてても良さそうなものだが。。

通常、どの趣味分野でも「いやーお恥ずかしい。。とんだ道楽で。ポリポリ。でも、楽しいから、好きでたまらないからやってるんですよ。」的な雰囲気がそこはかとなく漂うものですが、どうもそのへんの感覚がオヂオでは異なります。
さまざまな分野のコアな趣味の人々は、自分達は特定の偏狭な(コアな、先鋭化した)価値観を共有する者の集まりであり、価値観を共有しない者からは隔絶している事を重々わきまえています。ソレハソレコレハコレをワキマエテイルという事です。オヂオ界における最大の問題は「オヂオ趣味」と「オーディオ」のソレハソレコレハコレが明確に認識されていない事であろうとは何度も書いて来ました。

このように感じるのは僕だけではないようで、アキバ系オタクさん達の板を見ると、彼らの間でもオーオタ(彼らはオヂオマニヤをそう呼ぶ)系の評判は芳しくありません。アキバ系オタクの世界は、非常に細分化されているらしく、例えばアニメ系オタクでも多数の系統(同人の会)に分かれるそうで、価値観の異なる別系統のオタクにはお互い干渉しないというのが彼らの不文律なのだそうです。普通「趣味」とはそいうものですよね。価値観を共有しない者には全く関係のない世界ですから。従って趣味の「王様」は存在し得ません。本人にとって最も楽しい趣味が、そのヒトにとっての「王様」です。ところが、オーオタはなんか偉そうに垣根を乗り越えて入り込んできて、自分達の価値観を押しつけようとするのだそうです(他人のソーチをけなす、アーシロコーシロという)。価値観を共有するオーオタの同人の中だけでやっていれば良いものを。。。。なんとなく、その雰囲気分かります。僕にも。。。

また、オンガクセーとか、オンガクカノヂョーカンとかヂョーネンとか、カンセーとか、普通そうやたらとお気軽に使うには気が引ける、日常的に使うにはちょっと気恥ずかしく感じる言葉が、とってもお気軽になんだか便利に使われている事にも驚きました。。僕は、今でも気恥ずかしいので、ブログではカタカナ表記にしています。そして、それらの文言は、自分達のやっているコアな(偏狭な、先鋭化した)趣味的価値観を一般に向けて正当化しようと自分達に都合の良いように用いられる事が多いように見受けられます(「マニヤは音楽ではなく音を聞いている」とよく言われる事への反動なのでしょう。きっとね)。これは自分達のやっている事がソレハソレコレハコレのソレである事を認めたくないという態度とも受け取れます。なぜ、他の趣味のように、それを受け入れようとしないのでしょうか?「趣味」とはソモソモそういうものなのに。

また、そのような彼らの言葉の端々には、音楽あるいは音楽家に対する傲慢さが見え隠れし、ドキッとさせられる事も多々ありました。このような傾向は、彼らに強大な影響力を持つオヂオヒヨロンカ(オヂオヂャナリズム)に因るところが大きいのでしょう。彼らヒヨロンカは実際には「オーディオ」評論家ではなく、「オヂオ趣味」ヒヨロンカに過ぎません。本来の用途である音楽ではなく装置側に価値観の重心を置くオタク代表という事です。そのような価値観を象徴するのが「レコード演奏家」という言葉でしょう。「家庭音響技師」とかいうなら納得できますが、「レコード演奏家」という言葉には音楽および音楽家に対する傲慢さが見え隠れします。誰かがそのような言葉を真顔で使うのを見ると、かえってコチラが赤面してしまいます(聞いてるこちらがなんか恥ずかしくなる)。最近は言うに事欠いてオヂスト(audist)と言っているそうです。ピアノの演奏家はピアニスト、バイオリンの演奏家はバイオリニストだから、レコード(オヂオ)演奏家はオヂストという論理なのでしょう。ところが、この単語の本来の意味は

audist
【名】聴覚障害(者)差別主義者◆【参考】audism

だそうです(英辞朗)。なんだか絶妙なギャグですよ、これは。賤しくも大衆に広く影響を及ぼすプロフェッショナルとして、このナイーブさ(ドッシロート臭さ)は如何なものでしょうか。これはもっとハズカシイ。。。。

僕は決してオヂオ趣味を否定するつもりはありません(だって他人の「趣味」ですから)。しかし、それはあくまでもコアな偏狭な価値観に基づく「趣味/道楽」であり、ソレハソレコレハコレのソレである事を、やっている本人達と周囲がしっかり正しく認識していない事に問題があると考えます。それが明確に認識されるのであれば、ナンニモ問題はアッリマセン。だって「趣味」ですから。

例えば、鉄道界における鉄道趣味の存在は健全であるように見えます。一般からもすっかり認知され、今や老若男女を問わず、多くの人々がそれはそれは様々な形態で素直に自由に鉄道趣味を楽しんでいます。彼らは「オトハヒトナリ」とか「ツイキュ」とか大層な事を言いません。なぜならば、一般に対して自分達の価値観を正当化しようなんて微塵も考えないからです。彼らは一般鉄道利用者よりエライとかジョートとかコーキュなんておくびにも考えないでしょう。鉄道が大好きで「自分」にとって「楽しい」からやっているだけ。趣味ってそういうものですよね。今、敢えて趣味の王様を挙げるならば、それは鉄道趣味でしょう。

お若いの。。オヂサン達は、オヂオ装置のブツとしての佇まいや質感に深い魅力を感じ、それをアレヤコレヤ組み合わせてイロイロ微妙に異なるように聞こえる(ような気もする場合もある)音で「音楽を鳴らす」のが楽しくて楽しくてしようがないからやっているのだよ。ただの物数寄さね。。だから、本当に音楽を聴きたいなら、オヂサン達のような事をする必要はなく(というか、しちゃぁイケネーよ)、マジメに作られた実用的な装置(それがナカナカ無いのが問題だが)でタクサンいろいろな音楽を聴いて、本当に自分が大好きな音楽を見付けなさい。。何も今オヂオをやるこたぁねぇやね。そうして、余程ヒマと金をもてあますようになったら、またオヂサン達のところに来なさい。そうしたら泥濘の世界に引きずり込んであげよう。。。。。ってな、お大尽のシブイオトナの趣味なら何も問題は無いのですがね。。

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2014年02月18日 (火) | Edit |
常識的に考えて、なんらかの変化があったとしても、その変化は極めて微小(ほとんど皆無、諸々の条件変動の中に埋没する、他にもっとオッキナ基本的問題がアル)であろうとしか考えられないような事象や商品に、材料費/製造工数/開発費/必要リソース(設備、人員等)から考えて常軌を逸している(その筋の資金源か?)としか思えないような金額を支払う前に、

「自分は」本当にメディアや先入観や思い込み(いわゆるプラセボ効果)の影響を受けていないかどうか、疑ってみないのだろうか?

「自分は」その金額を「自分の」果たした労働と照らし合わせて妥当であると思うかどうか、ちょいと冷静に考えてみようとはしないのだろうか?。

家族や知人にデンセンやソーチを交換してもらって、ちょいとブラインドで聞き比べてみようとはしないのだろうか?

ヒヨロンカやザッシの「ナンタラ換えました!カンタラカンがドータラに変わりました!」の影響がそんなに強いのだろうか?そいうのがオヂオだと、そいうのがエラクてジョートな音楽の聴き方だと洗脳されているのだろうか?このナイーブさ(論理や思考が欠落した盲目的な永遠のトッカエヒッカエ)は一体全体どうしたことか?やはり、この業界のヂャナリズムの貧困と偏向が原因か?世の中全体にこんな傾向が蔓延したら、と考えるとゾッとします。最近、その傾向が世の中全体で強まりつつあるように思えてなりません。それは恐ろしい事です。それは極めて危険です。

「お金の事を言うと下品」と思われる方も居られましょうが、こんな様相の方が僕にはよほど「下品」に感じられます。

追記1
技術屋の使命は、人々の幸福につながるより良い製品を、より多くの人々に、より安価に提供する事です。このため、どの業界でも技術者達は「コスト」(オッカネ)と血みどろの格闘をします。モノゴトの本質を見抜き、人々にとって何が重要で何が重要ではないかを正しく見極めて、シンプルに、無駄なお金や時間を掛けずに、より良い製品を安価に世に提供する事に精進せねばなりません。身勝手なツイキュの泥沼に陥らぬよう、常に自らを戒めなければなりません。人々の労働の対価である「お金」は大切です。ホンマニ。

追記2
特に物欲/収集欲の強い高度成長期世代は恰好の餌食です(ディアゴスチーニとかね)。定年後破産というのが最近多いらしいですから。見るからに不釣り合いな定年後風オヂサンがBMWのスポーツカとかを運転している姿を最近やたらと街で見かけますが、大丈夫なんだろうか?大きなお世話なのでしょうが、心配になります。。。定年後の海外旅行中毒による破産も多いと聞きます。。。。で、散々贅沢をしてあとは生活保護って、そらアカンでしょう。オトナとしてチョーローとして最低でしょう。犯罪です。

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2014年02月16日 (日) | Edit |
今日は息子(高2)が愛用しているオヂオ装置をご紹介。

うちの運動馬鹿ムスコは、高校に入ったら練習が楽なオタノシミ運動部に入部し、掛け持ちで軽音の連中とも付き合って音楽をやろうとしていたようです。しかーーし、中学の先輩に誘われて、最も練習の厳しいアメフト部に入部。おかげでギターのかわりにプロテイン飲みながらウェイトトレーニングに励む高校生活を送っています。僕としては非常にザンネンですが、本人が決める事ですから仕方がありません(パパはがっかり)。

何を聴いているのか時々観察しているのですが、音源は専らスマホ+YouTubeのようです。以前はiPodを使っていましたが、最近は全く見かけません。スマホの普及によって、コンパクトカメラどころかPCまで苦戦を強いられていると聞きます。iPpodやWalkmanも同じでしょう。若い子達には、高度成長期オトコノコ的(オッサン的)な工業製品への異常な執着がありませんからね。テクノロジは道具として使い倒してナンボ。ロマンもノスタルヂもアッリマセン。極めて自然な時代の流れでしょう。ブツ(すなわち消費/生産活動)が減るのは良い事です。これからのヂダイは。

で、今回は彼が愛用しているオヂオ装置を紹介します。
41tnA5GwGgL.jpg
サンワサプライBluetoothステレオヘッドセット
MM-BTSH33W


SONY ワイヤレスポータブルスピーカー
SRS-BTV5

いずれも僕が「これならムスコも使うだろう」と厳選して買ってあげました。本当は、余っているAlpair6で作ってあげたかったのですが、「大きすぎる」「面倒クサイ」と一蹴されました。彼にとって重要なのは「小さいこと」と「デンセンが無いこと」。オンシツ?オンヂョ? ナニソレ?です。。。だよね。。。僕もそうだったし。僕が当時使っていたモノラル ラジカセに比べればずっと高音質だしね。とにかく多感な今は、オンシツやソーチなんかに大切な意識を消耗せずに「自分」が大好きな音楽をたくさん聞いて見付ける事が何よりも大事だよ。ウン。大切な時期だからね。今、それをしないとイケマセン。でないと、後々ツマラン悲しい事になる。

YouTubeでは洋楽(アメリカの最新ポップ系らしい)もよく聞いているようですが、彼のお気に入りはGoose house (詳しくはコチラ)というYouTubeを主な活動の場?としている日本のユニットです。
下は僕の一番のお気に入り。チョーチョーイーカンジ!

メンバーは7人くらい居るそうですが、僕はこの3人の組み合わせが好きですね。超楽しそう!ムスコも高校でアメフトやらなかったら、気の合う仲間とこういうのやりたかったんだろうな。。。という気がします。

最近、TVアニメ「銀の匙」のエンディングも謳っているとのこと。今後の活躍に期待したいと思います。

追記
このへんの装置が本当に重要です。これらの装置で全くアッタリマエに全く十分な音楽再生クオリティを提供できるようにならないといけません。それこそが技術屋の真の腕の見せどころです。無駄にコマケー事をドッコマデモツイキュしてヤッタラ高額なソーチを作るのがエライ技術ではありません。オーディオ装置とは、なにもオッチャンの趣味道楽ためにあるのではないという事です。

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2014年02月15日 (土) | Edit |
最近は殆どのラジオ放送をインターネットで聞くことが出来ます。

エリア内の民放FM、中波、短波はradikoで聞けますし、NHK のFMとAMはらじる★らじるで聞けます。地域のコミュニティFM局も殆どがインターネットでも配信しています(アプリをダウンロードすれば世界中のが聞ける)。さらに調べてみると、海外からの日本向け短波放送の多くもインターネットで聞けるようです。

なので、ネットワークに接続したパソコンまたはスマホがあれば、ラヂオ受信機はほとんど不要だと言って良いかも知れません。ラヂオ受信機の強みは、地域のインフラに依存しない(遠方の設備から電波を飛ばす)ので、災害時に強いという事くらいでしょうか?

僕が普段ラヂオ受信機を使っている理由の1つは、ダイヤル1つで各種の放送を手軽に選局できる点にあります。ダイヤルをクルクル回してプリセット局を移動し、気に入った曲やアナウンスが聞こえたら、そこで止めるといった使い方です。これに対し、インターネットでは民放(radiko)、NHK(らじる★らじる)、その他のコミュニティFM局(局のサイトまたはアプリ)に別々にアクセスする必要があります。これらを例えばiTuneなり1つのアプリなりに全部プリセットできると便利だと思うのですが。。。できないものでしょうかね?

僕がラヂオを買った1番の理由は、海外からの短波放送を聞いてみたかったからです。今のところ中国、韓国、北朝鮮、台湾、ロシア、ベトナム、イランからの放送を実用レベルで聞けます(インドとモンゴルは一度も聞こえた事がない)。もちろん短波放送なので、ノイズも多いですし、受信状態は日によって異なります(電離層の状態が異なるため)。聞いている途中で突然聞こえなくなったり、逆に素晴らしくよく聞こえ出したりもします。最近知ったのですが、これらの海外放送の多くもインターネット経由で聴けるようです。このご時世、当然と言えば当然かもしれません。。。やっぱりラヂオ要らんヤン。

試しにイランからの放送をインターネット経由で聞いてみました(コチラ)。
当然クリアですし、放送時間に縛られないので、断然こっちの方が便利ですね。スマホ用のアプリも提供しているようです。これから精々利用しよ!

でもですね。。。深夜に遙か遠くから電離層に反射しながら空気中を青息吐息で飛んでくるノイズだらけの音に耳をそばだてるという行為には、インターネット経由でクリアな音を聞いたのでは絶対に得られない感慨があるのも事実です。オヂサンのロマンとかノスタルヂーですね。

そう言えば、当時ブームであったBCLが下火になった1つの理由は、デジタル選局方式(PLLシンセ方式)が導入された事にあると言われます。デジタル式だと、周波数を電話番号みたくピポパとデジタル値で入力するだけで正確にチューニングできるため、ダイヤルを微妙に動かしながら電波の海のなかから目的の局を探し出すといった楽しみが薄れるからです。なるほどね。。。

また、ノイズの少し混じった狭帯域のラジオの音には温もりや親しみが感じられます。僕も深夜放送やBCLを楽しんだラヂオ世代ですからね。。なんだか懐かしい。

結局、オヂオも同じですね。
放送の内容(情報)を聞きたいダケであれば、インターネット経由で聞く方が圧倒的に実用的です。ワザワザ苦労してノイズまみれの音を途切れ途切れに聞く必要はありません。でも、放送内容ではなく「ラヂオを聞く(使う)という行為自体およびそれに付帯する諸々の手間や不都合」を楽しみたい場合、それでは寂しく感じてしまうという事でしょう。

よくオヂオマニヤ達が、「ブツリトクセーだけではオンガクノカンドーをヒョウーゲンできない」と言いますが、僕は全く逆に感じます。だって、ブツリトクセーがソコソコ整っていれば、音楽家さんが実際にやらはった事(つまり本当のヂョーカンたらオンガクセーたらを全部含む内容)がより正確に明瞭に楽に自然に違和感なく感じ取れるからです。それ以外に、ホンマの音楽家さんのヂョーカンたらを知る由はアリマセン。そのように聞いた上で、そこから何を感じ取るかは、それこそリスナの感性次第です。インターネット ラジオで聞いた明瞭な音声情報から何をどう解釈するかはリスナ次第。。。なのと同じ。苦労して短波受信機で聞いた方がエライわけでもアリガタイわけでも全く全然アリマセン。デスヨね。

上のマニアの言は、「オヂオ装置を聞く(あるいは鳴らす、使う、イヂル、買う、集める、比べる)という行為自体を楽しむ」上ではツマラナイという事なのでしょう。行為そのものに含まれるノスタルジーやロマンを味わえないという事です。彼らがよく言う「オンガクノカンドー」って、専らそちら方面(オヂオ装置を使ってオンガクをネタに音を鳴らすカンドー)の事を言っているように僕には思えてなりません。ドデショウカ。

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2014年01月03日 (金) | Edit |
あけましておめでとうございます。

前の記事に頂いた今井様からのコメントに関連して、以前から気になっていた「追究」という言葉についてちょっと書いて見ますね。

オーディオを「趣味」として楽しみたいのであれば、「追究」とか大層な事を言う必要はないような気がします。また、それこそが事をヤヤコシクしている元凶でもあるように見えなくもありません。オンガクセーとかオンガクカノジョーネンとかと似たような違和感を覚えます。

「趣味」なのですから、「自分」にとって「音楽」から「より善き楽しみ」が得られればよいわけですから、「自分」が楽しく心を遊ばせる事ができれば、それで善いのではないでしょうか。全く束縛されない自由な趣味くらい、一切のしがらみなく「自分」を通せば良いと思います。オヂオ趣味が「自己表現」だと言うならば尚更の事です。「表現」とは荒野のまっただ中に傲然とヒトリ立って、全く独自の(俺様の)道を進むという全く孤独な全く勇気の要る行為だからです。良いも悪いもゼンブ「自分」で決める事です。ダッレも教えてくれません。ダッレも頼りにデキマセン。「表現」なんて生半可な事ではデキマセン。

しかし、敢えてソレを「追究」と言うならば、あくまでも自分の好みの全く個人的な「追究」であって、実用機械としてのオーディオ装置にとっての普遍的な「追究」ではないと、よく心得る必要があると思います。ソレハソレコレハコレをワキマエル必要があるという事です。

「追究」すると「オーディオ装置とは表現者から鑑賞者への単方向情報伝達装置である」に行き着きます。オーディオ装置とは、スタジオで表現者が自分の「耳」で確認しながら作り込んだ媒体(作品)に記録されているアルモンをデキルだけ「表現者が望む状態のまま」で鑑賞者の耳まで届けるための機械に過ぎません。それ以外の部分は全くの「個人的好みの問題」「個人的好みの領域」です。それらは普遍的な「追究」の対象にはなり得ないという事です。「追究」はまず表現者のオッシゴトであり、ドッシロートには到底及ばぬ非常にハイレベルな彼らの「追究」の結果を万人に「正しく」届ける事こそがオーディオ装置の本来のオッシゴトです。チャイマスカ?

媒体に記録されたストラディバリの音は既に本当の生のストラディバリの音とは微妙に異なるでしょうし、各種エフェクトが加えられている場合もあるでしょう。また、マイクロフォンの配置によっても記録される音場は全く異なりますし、ステレオスピカ再生の場合、再生場の音響特性はコンサートホールとは全く異なります。ですから、媒体から遡ってコンサートホールにおける生のストラディバリに到達する事は絶対にできません。エンドユーザがいくら「追究」しようが、それは「自分」が勝手にイメージするストラディバリの音でありホールの音場に過ぎません。普遍的な「追究」のしようが無いという事です。ですから、「それ以上」(ナイモン)を求めるなら、「ソレは無い」という事を重々認識した上で好きにやれば良いという事です。本当にストラディバリの音を聞きたいのであれば、コンサートホールに行くしかアリマセン。機械(再生音楽)にはできる事とできない事がある。つまり「追究」しようの無い事がある。。と言うヤツです。

「追究」するならば、ヘッドフォン オーディオが最も実用的で現実的な答えでしょう(ただし、制作段階からヘッドフォンを前提とする必要がある)。スピカ方式では、再生場を無響室にしてスピカを多数並べるマルチCHしか方法はないでしょう。「場の再現」を求めるには、ステレオスピカ方式は余りに幼稚です。その程度のモンだという事です(グリコのオマケ)。しかし、ソレ(ナイモン)を徒に求めないのであれば、1950年代後半以降のステレオ媒体には音楽家達が目指した表現を楽しむに全く十分な情報がタップリと十分なクオリティで収められているように僕には思えます。ナイモンを徒に求めずアルモンを存分に楽しめば良い。せっかくソコには我々にとって貴重この上ない彼らの行為の結果が記録されているのですからね。。。と僕は想います。「追究」するならば、まず、デキル事(アルモン)をチャンと真面目に万人の耳までお安くお届けする事を追究するのが何よりも先決でしょう。せっかく「アル」のですから。。。

僕がうるさく苦言を呈しているのは、あくまでも業界のプロフェッショナル達に対してです。「機械」として「道具」として、本当の基本中の基本のところをもっと真面目にやってチョウダイという事です(まぁ、それ以前に、もっと命懸けのグサッと来る音楽を造ってちょうだいと言いたいが。。)。趣味は全く個人の自由です。しかし、ソレは「趣味」であるという事(ソレハソレコレハコレノソレであるという事)が広く世間で認識される必要があります。他の業界のように。。その認識を世間に定着させるのも、プロ(ヂャナリズム)のオシゴトだと思うのだが。

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2013年12月18日 (水) | Edit |
著名なオーディオ評論家である瀬川冬樹氏の著作に「虚構世界の狩人」というのがあります。当然ですが、これは「オーディオ」ではなく「オーディオ趣味」の観点から書かれた本です。

タイトル「虚構世界の狩人」は、オヂオ自体を「趣味」とする者(マニア/オタク)達の行動(僕の言う「ナイモンを求めて永遠にグルグル」)を見事に言い当てていると言えるでしょう。

オヂオ自体を趣味とせぬ、普通に再生音楽を楽しむためにオヂオ装置を使う人々の意識は、自然と音楽(アルモン)に向かいます。だって、大好きなアーチストさんの大好きな曲を聞きたいんだもん。。でしょ?

アルモンとは、媒体に記録されている音楽家の行為の結果です。媒体の記録は完全なものではないにしろ、媒体を造り込んだ音楽家達の行為自体は虚構などではなく、まごう事なき「現実」です。かつてベトベンという男があのような曲を作曲し、かつてジャコパストリアスという男があのようにジャズベースの弦を弾いた行為は、我々人間にとって貴重この上ない全くの「現実」であるという事です。

オヂオを趣味とはせぬ人間にとって、音がスピカから出てくるのはアッタリマエの現実、目の前には誰も居らずスピカがあるのはアッタリマエの現実です。再生音楽とは「ソーユーモノ」だと(ソレ以上のナニモノデモナイと)アッタリマエに受け入れます。マニアのようにそこに「虚構」を強く求めません。そんなもんよりも中身の「現実」をちゃんと聞かせてチョウダイ。。。です。

この「現実」をよりよくより深く楽しもうとした場合、媒体の中の「アルモン」をできるだけ正確に良い状態で(つまり自然に「ヨク聞こえる」ように、聞き取りやすいように)再生する必要があります。LEANAUDIOでやった事は、すなわちリスナの耳位置で周波数ドメイン/時間ドメイン的に正確に再生するという事は、全く一貫してそのためのアプローチです。「ナイモン」を勝手に付加すればするほど(虚構を求めれば求めるほど)、「アルモン」は聞こえ難くなります(最も貴き「現実」は希薄になります)。ナイモンは無いのであり、アルモン以上にはなりません。アルモン以上になったような気がしても、必ずアルモンからナニカを失い、また、それはちょっとした環境条件の変化やその場/その時の気分次第でフラフラ移ろう幻影に過ぎません(いわゆるコノミノモンダイ)。それが証拠に、マニア達は「これが至高!」と叫びながら、数ヶ月もすると「ナンカ」を買って交換して「ヒカクシチョー」し、それを何十年もの間延々と繰り返しますよね。僕に言わせれば、それらはトテモ「追究」と呼べるような行為ではありません。確たる目標を持たぬ(というか持ちようがナイ)ために、富士の樹海を永遠にグルグルするのは必至でしょう。しかし、それが「趣味」として楽しいというのであれば、それはそれで結構な事だと思います。。でもエラソーにする必要はありません。。好きでたまらないからやっている「趣味道楽」ですからね。そこにオンガクセーたらオンガクカノジョーカンたらレコードエンソーカたらをエラソーに持ち出す必要は無いでしょう。

対して、どう再生しようが「アルモン」は不変です。より良い状態で再生すれば、よりヨク聞こえる(より楽に、より自然に、ディティールと全体がより調和のとれた状態で聴き取りやすくなる)というダケです。自分にとって真に「ツマル」作品(音楽家の行為)は、録音が酷かろうがラジカセで聞こうが「ツマリ」ます。自分にとって「ツマラナイ」作品(音楽家の行為)は、ヒヨロンカ推薦の優秀録音盤であろうがパラゴンで聞こうが全く聞くに堪えません。ですよね。。

「虚構を追い求める」オーディオは、あくまでも趣味道楽/マニア/オタクのオーディオであって、本来の生活に密着した道具としてのオーディオではありませんし、ましてや道具として頂点に位置する偉くて上等なものでも、エンジニアリング的に高度なものでも、なんでもありません(鉄道界における鉄道マニアと同じ)。そいう「趣味」だというダケです。しかし、業界全体がそれを明確に認識せぬまま(あるいは商業的目論見の下に敢えて大衆に真実を伝えぬママ)、現在に到ってしまったと言えるでしょう。その結果として、普通のオヂオ装置の「道具」としての真っ当な進化が、他の民生分野に比べて大きく遅れてしまいました。

一方、誰でも簡単に安価にコンパクトに極めて高い音楽再生クオリティが得られる新しい民生オーディオ、すなわち携帯型プレーヤー+ヘッドフォンへと大衆が一気に向かうのは当然でしょう。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2013年12月09日 (月) | Edit |
ネタ切れ。今日は手短に。

音は人なり」と、さも大層に偉そうに言われますが、再三申して居るように、マニア達がやっておるのはソモソモ、モトモト「ナイモン」を求めて永遠にグルグルする「全く個人的コノミノモンダイ」なわけですから、「人好き好き」であって全く当然です。目にするたびに、例のオンガクセーとかオンガクカノヂョーカンとかレコードエンソーカとかと同様に、違和感を拭いきれません。

「音楽は表現者なり」であって、「表現者なりの音楽」を「鑑賞者」に「表現者が望むより良い状態」(表現者以外の何者でもなく、ましてやオヂオ技術者でもオヂオマニヤでも断じてナイ)で「伝達する事」がオーディオ装置の本来の目的です。そのような装置を、より高いクオリティで、より簡単に、より安価に、より多くの人々に提供する事こそが、オーディオ技術者の責務です。オーディオ装置とは音楽に(世の音楽表現者と音楽愛聴者に)貢献すべきものであり、音楽の下部(しもべ)でなくてはナリマセヌ。それが[道具」というものです。音楽がオーディオ装置に貢献するのではありません。アッタシマエですが。。。

もちろん、民生用機械ですから、そこに趣味嗜好の要素がある程度含まれても構いませんし、それ自体に尋常ならぬ愛着を示すマニア(オタク)層が存在するのも自然です。しかし、それはあくまでもソレハソレコレハコレのソレであるという事が世の中全体で認識されていなければなりません。他の民生機器分野のように。鉄道マニアが鉄道利用者の頂点では断じて無く、それはマニア達自身も一般利用者もアッタリマエとして認識していますよね。

でなければ、道具として健全な発展は望めません。世の中にとって、人々にとって(マニヤにとってでは断じてナイ)根本的で重要な課題を放ったらかしにして、趣味のコノミノモンダイ的微細な違いの泥沼から抜け出せなくなるという事です。

オヂオの問題の一面は、過去に多大な影響を及ぼしたヂャナリズム(とヒヨロンカセンセ)が単なるマニヤ(オタク)代表に過ぎず、余りにソレ方面に偏り、ドシロート(ナイーブ)であり過ぎた点にあるでしょう。未だに、その影響から抜け切れていないように見えます。

追記
現在のところ、カタログ等を眺める限りでは、メタルコーンAlpair以上に僕のお眼鏡に適いそうなドライバは無さそうです。明らかに抜きん出た存在であるように思えます。
マークさんには何度もお会いしましたが、いわゆる「ナンタラカン」的な発言を聞いた事がありません。時々、OEM等から、どうしてこのようにクオリティの高い音が出せるのか?と質問されるそうですが、「メカニカルエンジニアとして振動系の運動性を追究しているから」としか答えようがないそうです。僕には、極めて健全真っ当真っ正直なアプローチであるように思えますが、オヂオ界においては希有な存在なのかもしれません。表層的チャンチャラカンを追いかけても、グルグルするだけで行き着くトコロはありません。山の麓の同一高度のまわりを、超微小な違いに拘泥して永遠に彷徨うダケでしょう。頂上に向かって高度を稼ぐには、マークさんのように根っこの部分から真正直にアプローチするしかありません。これに、システム全体を考えたアプローチ、つまりメカトロ化をコンバインすれば無敵でしょう。コンバトラーVです。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2013年10月25日 (金) | Edit |
ABCと言っても「入門」という意味ではありません。今回は理想的なオーディオシステムについて考えて見ます。
ここで言う「システム」とは、制作側と鑑賞側を含めたトータルな「システム」です。

これにあたって、3つの状態を考える必要があります。
A: 音楽家の生の演奏行為
B: スタジオのモニタ装置で作り込まれ、最終的に表現者が彼の「耳」で確認/承認した状態
C: 家庭用再生装置でリスナの「耳」に届く状態

ここで重要なのは
1) B = A ではない
表現者が世に問うのはあくまでも「B」の状態です。表現者は明確な表現意図を以て「A」から「B」を作り込みます。場合によっては、「B」を「A」に「似せよう」(理想装置でない限り「似せる」事しかできない)とするでしょうし、場合によってはAに大幅な加工を加えるでしょう。どう作ろうが、それは全く彼らの勝手です。画家が何色を使って何をどう描こうが勝手なのとオンナジ。

2) C = B が家庭用再生装置の理想
理想的な家庭用再生装置の目的は、理想的なスタジオモニタ装置を使って表現者が彼の「耳」で最終的に承認した「B」の状態をリスナの「耳」に届ける事です。つまり、スタジオにおける表現者の「耳」から家庭におけるリスナの「耳」までの伝達です。

3) C = A は幻影(コノミノモンダイ)
いわゆる「原音再生」ですね。仮想体験を過剰に求めた「音場のサイゲン」というヤツも同じです。これらを過剰に求めると「ナイモン」を求めてグルグルする事になります。ソース(B)に含まれていないモノを装置で無理矢理付加しようとするわけですから、個人的コノミノモンダイの領域となります。「原音再生」とかナンタラカンタラとか、大層な事を言う必要はなく、個人的コノミノモンダイの領域ですから、各人好き勝手にやればヨロシカロウと思います。

次に、制作側および鑑賞側の理想の装置について考えて見ます。
1) 制作側の理想装置
理想のスタジオ モニタ装置は基本的に真っ白のキャンバスです。モニタ上で、表現者が思うがママに、望むがママのクオリティで、そのキャンバスに彼の望み通りの音楽表現(音色、ヒビキ感等を含む)を描ける事が、最終的なモニタ装置を含む制作側装置の理想です。彼がモニタ上で生音の再現を望めば全くその通りに再現でき、彼が生音に飽きたらず彼のイメージする音を望めば、モニタ上で自由自在に効果を加える事ができる装置です。彼がモニタを聴いて「ツマラナイ」と感じれば、彼が「ツマル」と感じるまで、モニタで聴きながらヒビキなり音色なりナンタラカンなりカンタラカンなりオンガクセーなりヂョーネンなりシヅルカンなり何なりの効果を加えるでしょう。

2) 鑑賞側の理想装置
理想の鑑賞装置は基本的に純白のスクリーンです。スタジオのモニタから表現者の耳に届いた「B」を、そのままのクオリティで、そのままの音色で、そのままのヒビキで、そのままリスナの耳に届けるという事です。絶対に勘違いしてはならないのは、「A」を再現する事が目的ではないという事です。リスナは、表現者がモニタで聴いて「ツマル」と感じた、彼の望むがままのナンタラカンなりカンタラカンなりヂョーネンなりオンガクセーを含む「彼(俺様)が求めた音」で「彼(俺様)の音楽」を聴く事ができます。リスナは、その表現が「ツマラナイ」と感じるのであれば、それを聴かなければ済むだけのハナシです。
恐らく、多くのオヂオマニア達が望むオトと、音楽家がモニタ上で僕達に聴いて欲しいと目指した音は大きく異なるのではないかと思います。マニアの多くは「ツマラナイ」と感じるのではないでしょうか。何故ならば、音楽に触れるに際しての意識の置き所が全く異なるように思えるからです。180度グルットね。。。。
リスナが装置でオトをイヂッテ自分が「ツマル」ように手を加えるのはリスナの勝手ですが、それは全くの個人的コノミノモンダイ領域であり、絶対的な基準はありません。オンガクセーたらヂョーカンたらをさも偉そうに振り回す必要はなく(真にそれを求めるのであれば、素直にソースを聴くべきであり)、自分の好きなようにやればヨロシカロウと思います。

以上は、あくまでも理想状態です。

制作側の装置(特にモニタ装置/方式/考え方)にも改善が必要でしょう。ただし、スタジオモニタだけが進化してもアキマセン。モニタはあくまでも、家庭用再生装置の原器である事を念頭に置く必要があります。モニタはシステム内の基準点に過ぎません。システム全体の最終的出力点は、あくまでも家庭におけるリスナの耳位置であるという事です。ここでの世の中全体の平均的クオリティが向上しない限りアカンという事です。

理想の実現を阻害する最大の要因は、再生場(部屋)の影響です。何故ならば、スタジオも各家庭の部屋も千差万別だからです。
第2の主要因は、若者達でも十分に手が届くリーズナブル価格帯のコンパクトな民生用装置(真っ当な家電製品)の再生クオリティ(特に低音再生能力)がここ何十年もの間基本的に進歩していない点にあります。最近のJポップの録音に対して批判も多いようですが、リスナの平均的な再生環境を考えれば致し方ないのかもしれません。家庭用再生装置のアベレージが大きく向上すれば、制作側のクオリティも必ず向上します。何故ならば、制作側がエクスキューズできなくなる(エーカゲンに作れなくなる)からです。

再三申しているように、部屋の影響を全く受けないヘッドフォン/イヤフォン方式は、以上の点で圧倒的に有利です。今後さらに、ヘッドフォン/イヤフォン再生が広く普及するようであれば、制作段階からコチラをモニタの基準にする事で、上記の理想状態に一気に近付く事ができるでしょう。

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2013年10月13日 (日) | Edit |
ジャズに関する続きの記事を書こうとしたのですが、この先やたら難しくなるので書きあぐねています。

という事で、久しぶりにオヂオのお話し。

ちょっとした機会があって、有楽町で開催中のハイエンドオーディオショーに行ってきました。「ハイエンド」なんだから自動車で言えば「スーパーカー」ショーみたいなものだろうと勝手に勘違いし、国際フォーラムあたりで超ミニスカートのお姉さん達がカタログを配ったり、夢のように絢爛豪華な商品や、実用性はどうあれ夢のような将来テクノロジーを展示したブースの前でポーズをとってニッコリなんてのを大いに期待したのですが、ゼンゼン違ってガッカリ。。。コレヂャ、以前行った事のある真空管ナントカショーとなんも変われへんヤン。。。。

全くオタク的でオヤヂ的で、閉塞感に満ちあふれ、この先発展はアレヘンデ感を自らアピールしてるのか?と言いたくなるような印象を受けました。これぢゃぁ、新しい顧客層を獲得できるわけがありません。訴求力も説得力もゼロ。一般の人は、エレベータを降りた瞬間に場違いなトコロに迷い込んでしまった事を悟って踵を返すでしょう。

「ハイエンド」をアピールするなら「説得力のある夢」をアピールしないと。高価なだけヂャあきません。高価であれば高価なりに説得力がないと。完全にバイアスのかかったオタクを説得したってしょうがありません。それヂゃ内輪でグルグルするダケです。一般常識を備えた一般人を説得しないと。ショーでは「オト」なんかドーデモエーンですよ。だいたい、アンナ場所で実用状態とは全く異なる環境でオトを聞いたって何も分からんし。一体全体、ナニのためのショーなのか?真空管ナンタラショーとナニが違うのか?同じオタクが来るだけやん。結局はオタクの同人の会みたいなものなのか?

大手の家電メーカさんには、こっち方面を明確に「オタク」(ソレハソレコレハコレのソレ)領域としっかりと認識してバサリと切り離し、一般の人々のための真っ当な電化製品としてのオーディオ技術にもっと注力して欲しいものです。コッチ方面の製品があまりに安直に、オザナリに、ナオザリに扱われているように思えます。なんも考えてへんやん。なんでハイレゾやねん。と言いたい。

オッタク領域のソッチよりもコッチの方が人間社会全体に対してずっと重要だし、真の意味で技術屋の力量が問われます。。やったらコマケー事をコスト無視でドッコマデモぐるぐると追究するのはドッシロートにやらせておけばヨロシ。そっち方面は誰にでもできます。。大手メーカさんには社会に対して責任を負った真のプロとしてのオッシゴトをして欲しいものです。。ホンマニ。

追記
ボサノバのライブを聴けたのは良かったけど、もう少し配慮されたステージ環境で演奏させてあげたかったナァ。ほんのちょっとの気遣いで良いと思うのですよ。演奏家に対してシッツレイでしょ。あっれぢゃぁ。スピカと同じ扱いかよ。。。。あんな扱いだったら呼ばなきゃ良いのに。なんで呼んだの?

あ、それと、光センサで針の動きを検出するレコードカートリッジはオモシロイと思いました。でも、あくまでも針の動きを検出するので、またメカ部に対してオッタク的アレヤコレヤが出てきそうです。いっそ、針は溝を追従する単なるガイドとして使って、溝の凸凹を直接光で読み取る事ができると良いのにナァ。。。と思いました。

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2013年10月01日 (火) | Edit |
以前の記事で、オーディオ技術に対して強い発言力や影響力を持ち続けてきたマニアック層(オヂオ雑誌購読者層と言ってよいかも知れない)は、総じてソースに欠落している元々ナイモン(例えば「場」の音)を追い求めてグルグルしているように見えると書きました。

もし、彼らが「アルモン」を求めているならば、あれほどの熱心さで、あれほど長年にわたって、あれほどの投資をして精進/追究すれば、遅かれ速かれ必ずどこかに到達/収束するか、少なくともその兆しや方向性は見えるはずです。僕には、彼らが元々ナイモン(幻影)を求めて永遠にグルグルしており、そのグルグル(なんやかんや「買って」交換する事)自体を楽しんでいるかのように見えます。その反面、本来最も重要な「アルモン」に関しては、えらく無頓着であるようにも見えます。コマケー事よりもまずアーチストさんがやらはった事すなわち「アルモン」をちゃんと聴かんかい。。。と僕なんか思うのですが。。。

確たる指標/目標を持たずに元々「ナイモン」を求めるため、グルグルすればするほど際限なく瑣末的事象(コマケーチガイ)へと意識は陥り、怪しげで高額な商品へとエスカレートする(だって、ナンカ買って、なんかイヂッテ、なんかオトを変えたいんダモン)、また総じて物欲や収集欲が強く、総じてナイーブな彼らは、業界にとって全くアリガタイ顧客であったと言えるでしょう。その結果として、業界への影響力が強かったと言えるかもしれません。

しかし、高度成長期の申し子のようなそんなアリガタイ顧客層が今後も存続するワケがありません。諸行無常が世の常。

なんでもエーカラ、ちゃんとした音楽再生装置(TVと同じように真っ当な家電製品)を世のミンナのために作ってチョウダイ。。。と言いたい。技術が素晴らしく進んだこのご時世に、他の民生分野(自動車、カメラ、家電製品)に比べてオーディオ製品の完成度が異様に低くて稚拙であるように僕には思えます。

追記
技術の進化によって利便性が増すと、大切なものが失われる。。。的なオッサン意見は、どの分野でも多見されます。例えば、銀塩写真に対するデジタル写真やアナログ録音に対するデジタル録音がそうですね。LPレコードを手間暇かけて聴く方が、iPodでお手軽に聴くよりもアリガタイ的な。。

果たしてそうでしょうか?僕にはそうとは思えません。それらは「目的」ではなく「手段」に過ぎないからです。そのような意見は行動が本来の「目的」ではなく「手段」(あるいは「物」)に依拠する度合の強い者達(オッサン)の意見に過ぎぬような気がします。確たる「目的」を達成するための単なる道具として使い倒すならば、利便性が向上するに超した事はありません。なぜならば、「目的の達成」により集中できるからです。

「道具」(テクノロジ)は使いようです。以前にも書いたように、「物」に対する変な拘りがない女性の方がテクノロジを上手に使いこなすような気もします。息子を見ていて思いますが、これからの男の子達もその傾向を示すでしょう。現在世の中の各方面で強い影響力を持つ僕達オッサン世代は、テクノロジの恩恵を正しく使い倒せていません(テクノロジ自体に夢中になり使わされて追い回されている)。ガキの頃から比べると余りにも急激に進化したからです。現在は過渡期です。現在見られる過渡期的な様々な弊害も、これからの世代が上手に使い倒せば解消するでしょう(そう望みます。オッサンが邪魔しちゃイケマセン)。繰り返しますが、テクノロジは「道具」に過ぎません。「目的達成」(ヒトビトの幸福)に向けて上手に使い倒してナンボです。このへんについては、そのうち詳しく考えてみたいと思います。

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2013年09月28日 (土) | Edit |
僕は明らかにSONYファンです。
学生時代のステレオラジカセ、ZS-F1、一時期愛用したCD-Walkman、2つ目に買った上等なカナル型イヤフォン、現在愛用する2つのヘッドフォンとポタアン、息子に買ってやったチビ丸君。。。技術的にもデザイン的にも洗練されているように感じられるところに惹かれます。

そんなSONYが大々的に「ハイレゾ路線」を打ち出しましたね。
SONYハイレゾ-1
いきなりメイン スローガンで「聞こえましぇん」という事をエクスキューズしておるわけですね。これは。で、「ナンカ感じてちょ」と?。どうとでも言い逃れできますね。消費者を煙に巻くというか。SONYファンとしてはガッカリです。そんな会社だったのか?SONYって?

最近、当ブログでもシリーズで「ハイレゾ」について書いたばかりですが、ネットで調査してみても、巷に溢れる「ナンタラ変わりました!」というのではなくて信憑性の高い情報だけを集めると、ハイレゾの効果については否定的なものしか見つからず、また自分でもスーパーツイータを買って再確認してみましたが、やはりトント何も「感じ」ませんでした。

今まで、主にソースの配信業者が「ハイレゾ」の「コーオンシツ」を強く喧伝していましたが、メーカ本体は今回のSONYほど露骨に「ハイレゾ」を打ち出していなかったように思います。なんだか媒体がもう出回っちゃってるしぃ。。。。一応、プレーヤとかスーパツイータくらいはねぇ。。。。という感じでしょうか。物作り屋として、効果もアヤフヤなものを余り露骨に強調するのも気が引けるしぃ。。。という雰囲気もあったのではないか?という気もします。技術屋さん、物作り屋さんとしてね。

それがですよ、よりにもよって、CD規格の策定に中心的役割を果たし、プロ用のデジタル録音機材にも深く関わってきたSONYさんが、こんなに大々的に「ハイレゾ」を打ち出すとは、正直言ってショックでした。SONYがこんな事をやる以上、それなりにしっかりとした学術的な音質評価試験(主にブラインドテスト)を実施して、学会にハイレゾの確たる効能を発表した上で、そして今後の音楽産業(消費者側/制作者側両面)のあり方を見据えた上で、やっておられるのだと信じたいトコロですが。。。果たして。。

製品発表会でSONYの偉いオヂサンが
「ハイレゾ音源は(人間の可聴域を超えるため)科学的には人間の耳には聞こえないが、体で感じることが重要だ。“聴く”から音楽を“感じる”楽しみを提供したい」と、やはり件のスローガンをソノマンマ唱えてエクスキューズしています。ご本人達はそれを「感じる」事ができたのでしょうか?
物作り屋としての道を踏み外すと、必ず後で手痛いしっぺ返しを喰らいますから。。。ご注意。

SONYがこんななら、Victor JVCさんなんかには、
Real Bass!/Real Music!
をスローガンにでも掲げて、デスクトップ用の超小型モデルから大型モデルまで、フルラインナップで低音までキッチリと本当に音楽を楽しめる真に真面目なオーディオ製品を全力で開発して頂きとう御座いまする。
そして、本当に何が重要か? を世に問うて欲しいものです。ある意味反撃のチャンスですよ。コレハ。

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2013年09月26日 (木) | Edit |
僕は、お気に入りのアーチストさん達が作ってくれはった「音楽」を楽しむダケのためにオーディオ装置を必要とします。そして、より楽により快適により良くより深く楽しめるよう、4年間かけて装置を開発してきました。その結果が現在のZAP 2.1システムであり、その開発の経緯は当ブログに詳細に綴ってきました。

僕は音楽再生において何を重要と感じているのか?今回はLEANAUDIOの原点を振り返ってみたいと思います。

そもそも、僕はソーチに殆ど拘りませんでした。高校時代はモノラル ラジカセか親父の4chステレオ、最もよく音楽を聴いた大学時代はSONYのちょっと上等なステレオラジカセ(エアチェックして、それはそれはイロイロと片っ端に聴きましたよ)、社会人になってからはパイオニアの「システムコンポ」(5段重ねの重箱みたいなやつ、明菜ちゃんが宣伝してたような気がする、テープとLPコレクションの中から厳選したお気に入りだけCDを購入)、そしてSONYのスピーカ一体型CDプレーヤZS-F1、最後にDENONのMDコンポといった具合です。

結婚して引っ越す際にシステムコンポを廃棄し、もうちょっと上等な装置を買おうかなと思ってカタログを集めたり友人宅やショールームでオッキナ ジョートの装置を聴かせてもらったりもしたのですが、なんだかイカニモ スッテレオ臭い音(なんちゅうか、シュワーとしてブワーとするというか、音が不自然にキレイで聴きにくいというか)が嫌いでゼンゼン必要性を感じませんでした。デカクて邪魔だし。。。で、結局SONYのZS-F1を購入。コイツは良かった。

その後ZS-F1が壊れて、近所の量販店で見た目が立派なDENONのMDコンポを安直に購入してしまったのですが、ZS-F1の方が良かったナァと、以前ほど音楽を聴かなくなりました(この頃はFMをよく聴いたカナ。。ピストン西沢さんとヒデシマさんのファンでした)。そんな僕が、携帯電話にフルさんのベトベン交響曲全集とジャコさんの全コレクションをコピーして、カナル型イヤフォンで聴いてみて、今までにない衝撃を受けた事からLEANAUDIOが始まります。その頃使っていたのは、フォーカルポイントのBass Freqという低音が最強と評判のカナル型イヤフォンでした(6K円くらいしたと思う)。とにかくジャコのベースを良く聴きたかったのでコイツを選びました。

いや、驚きましたよ。「音楽」が「よく聞こえる」の何のって。。それまでに聞いた事のあるどんなにジョートな装置よりも感銘を受けました。携帯電話で。。。
あの嫌なスッテレオ臭いシュワーもブワーもなく、極めて低い音まで素晴らしくよく聞こえましたからね。これがLEANAUDIOサウンドの原点です。

ジャコの絶妙にグルーブする無限加速的高速ベースはもちろん、最も感銘を受けたのは交響曲の低音の響きでした。もう電車の中でも鳥肌が何度も立ちましたもん。そして、今まで何を聴いておったのか?もう一度全部きっちり聴き直さなアカンやないかと。。。思ったわけです。

さて、以上の経験から僕が痛感したのは、
1) 低音までしっかりと聞こえる事がとにかく重要らしい
DENONの13cm 2ウェイ バスレフではモゴンモゴン ブワンブワンの低音しか聞こえず、激怒のあまりに破壊してしまいました。この頃はまだバスレフの問題とか、何Hzまで再生する必要があるかとか、部屋の定在波の影響とか、吸音材の重要性とかナーーーーンニモ知りませんでしたが、とにかく今までキチント低音を聴けていなかったらしいという事、そしてそれは(西洋)音楽を楽しむ上で致命的であるらしいという事はよく分かりました。

2) 携帯型プレーヤの利便性は素晴らしい
これは音質には関係ありませんが、その利便性はカナル型イヤフォンと同じくらい僕にとって衝撃的でした。僕の場合、CDの入れ換えがもどかしくて、そのうちジャケと中身がゼンゼン一致しなくなり、時々大神経衰弱大会が必要でした。また、聴いたヤツはどんどん、そのへんに積み上げるので、そのうちグヮシャと崩れて、床がCDだらけ。それでも片付けないので、踏んづけてケースが割れてしまう。無傷なケースの方が少ないかもしれません。アレを聞きたい!と思っても、なかなか目的のCDに辿り付けないし。。。という事で、やたらコマケー音質なんかよりも、このような利便性の方が僕にとっては遙かにアリガタイ。とにかく、日常生活の中で快適に音楽を楽しむための道具なわけですからね。大事な事だと思います。

反面
3) いわゆるコマケー「オンシツ」はさほど重要ではないらしい
なにせ携帯電話に圧縮音源です(128kbpsだったと思う)。そして50年代前半のモノラル録音。「オンシツ」的には最悪の部類ですよね。そんなんでも、低音がキッチリと聞こえる事で、それまで経験した事のない感銘を受けて鳥肌が立つのですからね。それまでに聞いた事のあるジョウトーな装置よりも、携帯電話+カナル型イヤフォンの方が総合的な「音質」すなわち「音楽再生クオリティ」が高かったという事でしょう。

という事で

記録されている可聴帯域の音(信号)を、低い音まできっちりと真面目に(つまり周波数ドメイン/時間ドメイン的に正しく)リスナのお耳まで届ける事が何よりも重要であろうかと思うわけです。

「原音再生」とか「高忠実度再生」とか、そんなご大層なお題目を大上段に振りかざす不要はアリマセン。これは、音楽再生装置として「言わずもがな」の全くアッタリマエの全く基本的な命題です。自動車にとっての「安全に走る/曲がる/止まる」と同じでしょう。

どんなに小さな装置でも、この命題をキッチリと果たしてもらわないと困ります。どんなに安価な軽自動車だって安全に「走って/曲がって/止まる」必要があるのと同じです。それが十分に可能である事はケロ君で実証済みですよね。

また、この命題が十分に達成されれば、記録されていもいない元々ナイモンを徒に追加する必要もないでしょう。僕としては、あまりシュワーっとさせたり、ブワーっとさせたり、キランキランさせたりしないで欲しい。「音楽」が聴きにくくってしようがない。そこにアルモンをキッチリとリスナの耳まで伝える事。それを疎かにしては、何も始まらぬと思います。

追記
自動車の場合、お国が安全性やエミッションに関して厳格に規則を定めています。ですから、どんなに安価な製品でも自動車としての最低限の条件を必ず満たしています。オーディオ装置に関しては、もっと緩やかなもので良いですから、音楽業界オヂオ業界が協力して「音楽再生装置」のガイドラインを設けても良いのではないかと僕は思いますよ。

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2013年09月24日 (火) | Edit |
オヂオマニア達の言動や行動を観察していると、彼らの多くは「音楽」そのものに強い興味があるわけではなく、ヒヨロンカのようにソーチの音の微妙なチガイをキキワケル事自体や、装置から出てくる「音響現象」で気持ちの良い雰囲気とかフィールド(場)を創出する事(ヨイオトの創出?)にやたらとご執心のように見受けられます。また、「音楽」はそのような「チガイのキキワケ」なり「場」や「雰囲気」の創出のためのあくまでも「ネタ」(音源)として興味の対象となっているようにも見えます。

しかし、これは普通に「音楽」を楽しむという行為とは意識の置き所が大きく異なるでしょうし、「オーディオ主体」ではなく「音楽主体」に考えれば、広く一般に(特に青少年少女に)薦められるような類の音楽との接し方であるとは僕には到底思えません。意識の置き所が180°異なれば、装置に求めるものも180°異なって当然です。何が重要で何が無視可能かという判断基準がグルッと異なるわけですからね。その結果、僕は当ブログで同じような事を繰り返し繰り返し主張するはめになるワケです。ホンマシツコイと思います。スンマセン。

別に、誰がどう音楽を聴こうが、それは全く個人の勝手ですが、業界全体が特に高品位クラスがあまりにソッチ方向に向きすぎてるのとチャウ? もっと真面目なホンマの家庭用音楽再生装置が必要でしょ?適正価格の「音楽を聴くためダケ」の装置がさ。と思うワケですよ。でないと、アーチストさん達が浮かばれない。

マニアの中には、オヂオ(機械)自体への興味が発端で音楽を意識して聴き始めたという方も多かろうと思います。僕も中2の時にその轍を踏みかけた事があるので分かります。そうすると、「自分」なりの音楽との接し方や「自分」が本当に聴きたい音楽の見極めをしっかりと確立する前に、いきなりオヂオ雑誌やヒヨロンカの影響を強く受けて、オヂオ装置を「鳴らす」ために(オヂオ主体的に)音楽を聴いてしまうわけですが、オヂオ雑誌やヒヨロンカは、そのような聴き方がまるで上等な音楽の聴き方であるかのように、読者にとんだ勘違いをさせているように思えます。「音楽を聴くとはそういう事で、オヂオ装置とはそゆうふうに使うものであって、オヂオ道に日々精進してサイテーヒャクマンエン出さないと音楽はマトモに聴けぬぞよ」とね(なんかこうなると新興宗教ですね。あ、それで「鰯の頭」なわけね)。

今までオヂオ雑誌やオヂオヒヨロンカの影響でソレが当然と思わされてオヂオ道に精進されてこられた方も、今一度ヨック考え直して見てください。オヂオメディアの情報は「オヂオ主体側」に余りにも偏っています。自分は一体全体ナニをやっておるのか?一体全体ナニをやりたいのか?一体全体ナニを聴きたいのかと。で、結局自分がやりたいのがやっぱり「ソレ」であれば、「ソレ」を続ければ良いだけのハナシです。考えてみて損はアリマセン。お金もかかりませんしね。

それはさておき、そんなにフンイキとリンヂョカンとかが重要だというのなら、また、そのために付帯的/瑣末的音現象にそれほどまでに多大な意識を消耗し、それほどまでに多額の投資と労力を割くのであれば、いっその事、自分が気持ち良いと感じる「場」の環境音をツイキュするなり、それらを積極的に音楽の再生音に混ぜてみたらドナイヨ? と思うワケです。そっちの方が直接的でテットリバヤクね?

元々ナイモンを無い物ねだりしておるわけで、しかし「何が無いのか」を明確にしないまま、トッカエヒッカエしてタマタマ現出する音(+心理)現象に反応して場当たり的に行動するからグルグルするわけで、よく分からんから価格や物量やメディアに惑わされるわけで、何が無いのかを明確にして、それを直接追加してやればエーントチャウ? という事です。

例えば、話し声や食器の音が入ったジャズクラブの環境音や、コンサートホールの開演前の静まりかえった状態(何百人も居るので、シーンとしていていも無音ではない)の環境音を、音楽ソースにミクスするなり、別の装置で(それこそサラウンドで)再生するなりすれば宜しかろうと思います。あるいは、自然界の音とか、色々な音を混ぜてツイキュしてみてもオモシロイのではないかな?また、LPを好まれる方も多いようですが、であればLPに含まれる典型的な暗騒音をミクスしてみても良いかも知れません。で、そのノイズ成分とか混ぜ具合をイロイロ変更して、LPよりももっと気持ちよくするとかね。。。LPのノイズはタマタマ入っているだけなので、もっと「良い」ノイズだってアルでしょうよ。

「趣味」としてやるなら、またそれだけの「熱心さ」があるのなら、デンセンやデンゲンや高額装置をトッカエヒッカエするだけでなく、もっと自由な発想でもっとイロイロな、もっと直接的な、もっと決定的な、もっと論理的な試行錯誤をしてみた方が、ずっと楽しいしクリエイティブだと思いますよ。きっとね。こんな事を書いていると、僕もなんかやってみたくなってきましたよ。。。え?ソレヂャ物欲が満たせない?やっぱり骨董趣味?

またグダグダ書いてしまいましたが、今回の結論です。
オヂオマニア達の言動や行動を観察するに、彼らが追い求めているのはそのようなソースには含まれない「環境騒音」成分ではないかという気がしてなりません。「場」の音って事です。そして、ソースに欠落した「場」の音をなんとか補おうとしてグルグルしているという事ではないでしょうか。以前の記事に書いたように、これは特に爆音再生時に強く感じられるはずです。なぜならば、自然な暗騒音レベルの生活空間で、それにバランスした快適音量で音楽を聴く限り、ソースにおける暗騒音の欠落はそれほど深刻ではなかろうと思われるからです。

という事で、そういう騒音付加ソースとか付加装置って、新しい商売にならないかな?そいえば、超高域音を人工的に付加するハーモネータって、この類の装置ですよね。このノイズプロファイルを工夫して可聴帯域までノイズを付加するわけよ。気持ち良くなるノイズってあるのじゃないかな。音響心理学の分野ですね。オモシロソ。。。

如何でしょうか?

追記
僕のマンションの閉め切った部屋でも、計測してみると時間帯によって暗騒音は結構変化します。あまりコマケー事をツイキュしても、例えば、昨晩徹底的に追い込んだセッティングが、今朝聴くとイマイチなんていっくらでも有り得るでしょう。暗騒音も明るさも室温も湿度も周囲の街のフンイキも、何よりも自分の身体/精神の状態が、昨晩と今朝では大きく異なって当然だからです。そりゃもう、コマケーセッティングのチガイなんかぶっ飛ぶくらいデカイ変化があるはずです。何事もホドホドにしないと。。。一方、媒体の中の最も肝心要の「音楽の内容」は不変です。こいつは変わりません。コイツをキッチリとお耳まで届けて聴きましょうや。アーチストさんが全責任を負うコイツをさ。。。。でしょ?

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2013年09月19日 (木) | Edit |
前の記事に関連して。。。

下は、以前にも紹介した小澤征爾さんのコメント(らしい)。
ぼくたち指揮者は一生懸命音を混ぜようとしているのに、どうして君たちオーディオマニアはそれを分解して聴こうとするんだい?

きっと、
「ぼくたちは、オーケストラの全ての楽器とホールを、何百年もかけて先達が築きあげてきたヒミツの法則にさらに磨きをかけて1つに調和させ、時間的にダイナミックに流れ移ろう1つの巨大/複雑な統合体である「音楽」を聴衆の眼前に現出させようと心血を注いでいるのに、どうしてそれを個々の楽器に分離するどころか、極めて局所的/微視的な「音現象」にまで分離して聞こうとするのか?」と言いたいのだと思います。

とにかく、彼らの意識は「音楽」(すなわち超感覚的に捉える統合体)へと向かうのではなく、全く逆の方向(聴覚に縛られた際限なく微小な音響現象の知覚)へと向かう傾向が異常に強いと言えるでしょう(180°グルットというやつです)。オヂオヒヨロンカ センセがそいう聞き方をするからでしょうか。ホンマニ音楽聴きたいのか?と問いたくなります。

もちろん、音楽をどう聞こうが個人の勝手です。しかし、問題は、そのような傾向を強く持つ特殊なクラスターに属するヒトビト(オヂオヒヨロンカ、マニア、オタク)がオーディオ界において強い発言力や影響力を持ち続けて来た点にあります。その結果、音楽再生上全く基礎的で重要で巨大な問題を何十年も放ったらかしにして、これまた際限もなくコマケー事にばかりに拘泥するという、技術開発アプローチとしては全くドシロートなウルトラ超三流状態(泥沼)に陥っています。世間一般にとっては全く迷惑千万なハナシです。。。

モータの音とか前照灯のコマケー位置とかマニアックな事ばかりに拘って、通勤電車がいつまでたっても安全に快適に安価にならなかったら、誰だって怒るでしょう。違いますか?

ですから僕は、事あるごとに、音楽のプロフェッショナルである「音楽界」(表現者)がもっと民生オーディオに強く関与すべきだと言っているのです。ドシロートに好き放題やらせると永遠にグルグルするばかりでしょう。

さて、コミック「のだめカンタービレ」で、千秋が常任指揮者を務めるマルレオケのコンマス(シモンさんだっけ?)が団員達に語った言葉がとても印象に残っています。

「アンサンブルの神髄はハーモニー。要するに『調和』だ」
「この調和は古代ギリシャ時代の『ハルモニー』と呼ばれ、キリスト教社会になった時『神の作りたもうた世界は素晴らしい調和によって創造されている。その調和の根本原理は数の関係によって成り立つ』」
「それを探求することによって、調和の謎が解明でき、神の世界をより詳しく知る手がかりを得ると考えた」
「音楽の本質は『調和』にあるのだ。それを表現するのが真の『音楽家』なんだ」


調和、調和、調和、チョーワ、チョンワ、チョンワ、クェッ、クェッ、一体何回出てきた?
調和(ヒミツのバランスとかエー塩梅)こそが「音楽性」ってやつでしょう。

これは何も、いわゆる「クラシック」と呼ばれる、なんだかそれだけでやたら無条件にアリガタがられる傾向にある特定ジャンルの音楽にだけ当てはまる事ではありません。あれは、あの時代に作られた、あの時代を反映する音楽だと言うに過ぎません。時代性を超越したスッゲーのもあれば凡庸なのもタクサンあるでしょう。

常に時代と共に、というか時代の先頭を切って変化するのがアートです。そうでないとイケマセン。新しい世界の見え方を、新しい「クールさ」を、「ドヤ!」とドヤ顔で僕達に突きつけるのがアーチストさんです(最近お目にかかれないけどね)。そして、ベトベンこそがそのようなアーチストさんの始祖であると僕は考えています。クラシックであれジャズであれロックであれポップスであれ、全て、上記を起源とする「西洋音楽」の基本法則に従うという点では同じです。

また、上では随分難しげな事を言っていますが、「チョーワ」とか難しげな事を眉間にしわ寄せて「考え」たり「分析」しながら聴いたら、その時点でオッシマイです。オッシマイ。全てダイナシ。せっかくのヒミツは全部手からこぼれ落ちるでしょう。ここでもヒヨロンカごっこする必要は全くアリマセン。ブルースリーも言ってますよね「Don't think, feel.」ってね。素直に楽しまなくっちゃ。ふにゃーっとココロを遊ばせないと。

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それには、まず第一に「自分が」本当に大好きな、「自分が」本当に聴きたい音楽を見付ける事が重要です。オンシツとかオンヂョとか意識にも登らないくらい大好きなのをね。当ブログで何度も紹介した「音楽家の多くは高精度のハイファイ音を楽しむのではなく、音楽の本質を聴く。したがって、彼等は名演奏であれば、SPから再生されたCDでも満足して聴いていることが多い。」って論文の抄録がありましたよね。だって、彼らは三度の飯より「音楽」が大好きなワケですからそうなりますよね。オンヂョなんかに意識は向かいません。

何も「チョーワ」してそうなエラソーでムツカシソーな音楽をキョーヨー(教養)としてかしこまって聴く必要なんかアッリマセン。学校の音楽の授業ぢゃぁナイのですから。それでは結局「音楽」をホントニ心から楽しめないでしょう。ココロを遊ばせる事はできないでしょう。楽しめないから「ツマラナイ」(出た!)、「ツマラナイ」から無理矢理「ツマラス」ために卑近な感覚界の現象にアレヤコレヤと拘泥する。「ツマラナイ」なら「自分」にとって本当に「ツマル」「音楽」(オトではない)をまず探しましょう。

だいたいクラシックは、遠い遠い昔の、遠い遠いお国で、ルネサンスを経たとは言えまだまだキリスト教がヒトビトの精神を今よりもずっと強く支配し、世の中の仕組みもヒトビトの世界感も現在とは大きく異なる時代の音楽です。ハプスブルグさんやブルボンさんが幅を効かせていた時代です。主には教会とかそいう人達向けに作られた音楽だという事です。今の我々にはトッツキが悪くて当然でしょう。まずは何でも良いから、もっと身近でもっと「自分が」素直にカッコイーとかキンモチイーとかスッゲーと思うのを見付けて素直に楽しめば良いと思います。そっからです。全ては。

ヒヨロンカの言う事なんか絶対信じちゃぁイケマセン。作家自身の言葉すら信用デキマセン(やってる本人達ですら良く分かっていないのがアートですからね。だからこそオモシロイわけです)。「自分だけ」が頼りです。それが「感性」ってやつです。そのような経験を積めば、「自分は」音楽に何を求めているのか、「自分は」何が好きなのかもダンダンと明確になるでしょうし、そっから遡れば、根っこは同じなので自然とクラシックの中にも時代性を超越して「自分が」本当に「クールだ」と感じるヤツも見つかるでしょう。

あ、それと、アーチストさん達は僕達を「癒す」ために命削ったのではないと思います。音楽にやたら「癒し」を求めるのはチガウのヂャァないかなと思いますよ。

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2013年09月04日 (水) | Edit |
超高域音をヒトが弁別可能かどうか?については、学術的にも未だ明らかにされていないというのが現状のようです。いずれにせよ、そのくらい効果は微小で微妙だと言えるかもしれません。

学術的にどうであれ、重要なのは、それによって「ヒトビトが音楽をより善くより豊かに楽しめるようになるのかどうか?」という事です。ドコマデモ分別なくチガイを追究しても実用的な意味はありません。

可聴帯域を超える音を再生する事で、どのようなメリットが得られるのでしょうか?
今回はそのアタリについて考えて見たいと思います。

バイオリン、ピッコロ、ピアノの最高音階は概ね4kHzであり、様々なジャンルの音楽のスペクトルを解析すると、一般的に10kHz以上でレベルは急激に減衰します。また、多くのクラシック曲では3kHz前後から約-12dB/Octの傾きで高音が減衰する傾向が見られます。一方、ヒトの耳の感度は、年齢にもよりますが、10kHz以上で極めて急激に低下します(下図参照)。ですから、一般的な音楽を再生した時に20kHzを超えるような超音波領域の音が「耳に聞こえない」のは当然であるように思えます。

超音波1
超音波

超高域音は「音楽の内容」(音楽家の表現意図)には含まれないと言って良いでしょう。実際、前記事の論文では、音源の演奏者達自身(バイオリニスト(30代の女性)を含む)も被験者として含まれていましたが、彼らは超高域音を弁別できませんでした。つまり、彼らが楽器を演奏する際、超高域音は彼らの表現意図には含まれていない、あるいは、少なくとも彼らにとって表現上の重要な要素では無いと言えるでしょう。

また、超高域音は提示時間を長くすると関知されやすいという説もあります。実際、例の論文の結果でも、提示時間を長くした場合にのみ(85~120秒)、2名の被験者が琵琶の超高域音をなんとか弁別しました。この2名でも、20秒では琵琶の超高域音を弁別できていません。つまり、長時間の提示によって超高域音を関知できたとしても、それは一時たりとも留まらずに激しく変化する「音楽の内容」にリアルタイムに連動しているわけではないと言えます。実際、ランダムな超高域信号(ノイズ)を「擬似的」に生成する機器が売られていますし、FrieveAudioにもそのような機能が備わっています。

さらに、超高域音を弁別した上記2名の被験者の聴覚感度(純音、22kHz)は、琵琶の超高域音を「聞き取れる」レベルではありませんでした(SPL感度は90dBを超えていた-上図の縦スケールを超えている)。彼らは超高域音を「耳」で「聞き」分けたとは言えず、彼らが超高域音を弁別したメカニズムは不明であると著者は結論付けています。これに関しては、「ヒトは超音波を聴覚器官以外の部位(皮膚の表面等)で感じ取る事ができる」という説があります。この説も、まだ学術的に証明されたわけではありません。しかし、その可能性はあるように思えます。

さて、以上から僕が勝手に推測するに。。。
- 音楽再生における超高域音は「音楽の内容」(表現者の意図)には直接関係しない一種の環境騒音のようなものであろう
- ヒトはそれを耳ではなく身体のドコカで感じる事ができるのかもしれない
- 超高域音には、オヂオマニア達がやたらと執心する「ケハイ」とか「クーキカン」とかの「場」を演出する効果があるのかもしれない

特に、スタジオでピュアに録音されたソースの場合、ソースに含まれるランダムな環境騒音は皆無に近くなります。そのようなソースを閉め切った暗騒音の低い部屋で1人静かに聞く場合、再生音楽にライブ感を強く求める傾向にあるマニア達には寂しく感じられるのかも知れません。例えば、CDよりもLPを好む方が居られますが、これも、LP再生の方が超高域までランダムノイズを大幅に多く含む事が理由の1つではないでしょうか。

以前にも書きましたが、自然界の暗騒音のスペクトルは1/f 分布に従い、時間的にも1/f 的に揺らいでいます。ヒトはそのような暗騒音に囲まれて普段生活しています。ですから、暗騒音が極端に低い完全無響室に入ると異様な圧迫感を覚えます。

閉め切った暗騒音の低い部屋で、暗騒音の少ないソース(例えばスタジオ録音盤)を、S/Nの高い媒体で(例えばCDで)、S/Nの高いコーキュシステムを使って再生した場合、「音楽の音」(部屋の反射音を含む)に対する部屋のランダムな暗騒音の比率は非常に低くなります。この傾向は、再生音量が大きい程顕著となるでしょう(部屋の暗騒音に対して音楽の音の相対強度が極端に高くなる)。これは実質的に無響室に近い状態と言え、通常の感覚の持ち主であれば、閉め切った部屋で快適音量を大きく超えるような大音量で再生すると、圧迫感を覚えて耐えられないはずです。おそらく心拍数も上がり、健康上望ましくないでしょう。

大きな装置を所有するせいか比較的大音量で、閉め切ったリスニング専用ルームの1点にマンヂリともせずにヂット留まって再生したがる傾向の強いマニア達が、真空管やLPやその他諸々の装置由来のヒビキ等、付帯的音現象(ノイズの付加)にエラクご執心な理由は、この辺りにもあるように思えます。雑味ってやつですか? なんだかワザワザ苦労しているような気もしないではない。。。

以前の記事で紹介した日本のさる機関によるヘッドフォン・イヤフォンの音量に関する調査報告では、周囲の騒音レベルが低い静かな環境では80%上の被験者が80dBA以下を快適だと感じ、周囲の騒音レベルが上がると同じ被験者の快適音量レベルは顕著に増加するとしています。つまり、周囲が静かだと快適音量は下がり、環境騒音が増加するにつれて快適音量も増加するという事です。ヒトは、環境騒音とのバランスで音楽の音量を快適なレベルに調整するという事でしょう。このバランスを敢えて無視して静かな環境で徒に音量を上げると、何らかの付帯的オト(ヒビキとかザツミとかのノイズ成分?)が恋しくなるという事でしょうか。。。。やっぱりワザワザ苦労しているように見える。

このようなリスナには、例えば、コンサートホールの客席での「シーン」と静まりかえった状態での暗騒音(超高域成分と時間的揺らぎを含む)を模した環境音をリスニングルームで再生する別体の装置があると良いかも知れません。この場合、暗騒音は音楽に連動する必要はアリマセン。あるいは、環境音(海の音、森の音、滝の音等)のCDを最小限の音量で流しておいても効果があるかもしれません。これらを行う場合、音楽を邪魔せぬよう、適度なフィルタ処理(例えば10kHzハイパス等)が必要かもしれません。かな?

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2013年09月02日 (月) | Edit |
ヒトが「ナンタラ変えました!カンタラ感がコータラに変わりました!」と自信満々に言う時、そこには必ずプラセボ効果が付きまといます。その影響は、違いが微小であればある程大きくなります。

以前の記事に書いたように、何人たりともプラセボ効果の影響から逃れる事はできません。程度の差はあれどナンピトタリトモです。そして、この影響を排除するにはブラインドテストを実施するしか方法はありません。ソレシカホーホーハアリマセン。薬効の全く無い偽薬でも、医者から「効くから」と渡されると、実際に計測可能な治癒効果が生じる。。。というのが我々ニンゲンの習性です。

公なデータを求める場合、ブラインドテストには統計解析のために多数の被験者が必要となりますが、「自分が」聞き分けられるかどうかを知りたいだけであれば、工夫次第で1人で実施する事も可能です。2人居れば大概の事はできるでしょう。

そのような例として、foober2000のプレイリストでサンプルをランダムに再生するという方法を使って、1人でハイレゾとCDのブラインド比較を行ったという、さるマニアさんの興味深い記事を紹介します。

ブログ「週間:LEDライト」の中の「駄耳証明 ダブルブラインドテスト(二重盲検法)」という記事です。詳しくはソチラをお読みください。

著者は
自分の耳で聴く自宅のオーディオシステムで再生する弦楽四重奏曲では、ハイレゾ音源か否かの区別は付かないことが分かりました。何回も聴いていると、確かに高域が響く輝くまたは少し詰まって聴こえるなど差を感じることがありました。
しかし、テスト結果から考えると錯聴であるとしか考えられません。同じ音が自分の耳には確かに違って聴こえてしまうという不思議な現象が起きることが確認出来ました。

と結論付けています。非常に貴重で興味深い試みであったと思います。

そうなんです。偽の薬でも本当に効いてしまうという「不思議」な現象が我々ニンゲンには発生し得るのです。この著者が特別「駄耳」というわけでは無いでしょう。前の記事で紹介した論文の実験では、音楽の専門家達でもハイレゾを弁別できませんでしたよね。

オヂオマニアの方が音楽家よりもソーチのコマケー音を聞き分けられるなんて意見もありますが、果たしてそれはどうなんでしょうかね。たとえそうであったとしても、マニア達のやっている事を観察すると、オヂオソーチの「オト」をキキワケル耳と音楽を聴く耳では、意識の置き所(どの現象が重要で、どの現象は無視して良いかという焦点の合わせドコロ)がソモソモ異なるように思えます。ですから僕は、これから音楽に親しみ始める青少年少女には(少なくとも自分の息子には)オヂオマニア的な音楽の聴き方を決してして欲しくないと思います。

以前、LEANAUDIOに頂いたコメントにも、「アンプによって音は変わるのがアタリマエと思い込んで(思い込まされて)いたのに、オヂオ仲間で集まってブラインドテストを実施してみると明確には聞き分けられなかった」というのがありましたよね(PDF: ブラインドテストレポート スピーカ再生技術研究会)。
以下著者の結び
今回の試験の結果を考慮すると、雑誌の比較記事のような方法では、差は判別出来ないと考えられる。恐らく、雑誌等の比較テストでは、音量その他の条件が揃えられておらず、また、思い込みの影響が強く出ているのではないだろうか。今回の比較は、ほぼ完全なブラインド状態であり、被験者は事前に答を知ることが出来なかった。そして、大きな価格差のあるシステムを比較したにも拘らず、完全には判別することが出来なかった。このことは、ソースを限定すれば、アンプを変えても聴き分け可能な差がない可能性を示唆している。しかし、音量や試聴ソースを変えれば判別が可能になる可能性も否定できず、追試験は十分に意義があると考える。

ヒヨロンカの発言、雑誌の記事、ブランドイメージ、製品の見た目、製品のスペック、価格、過去の経験等によって我々の感覚は、我々が予想しているよりもずっと大きな影響を受けます。例えば、試聴会かなにかで、非常にカリスマ性のある人物または権威のある人物が、チョイト何かを変えたフリをして満面の笑みをたたえながら「ホラ、全然違うでしょう!」と自信満々に言えば、その場に居合わせた少なからぬヒトビトが実際にそのように感じるでしょう。それが「偽薬効果」です。そのような実験をやってみてもオモシロイかも知れません。

イエス様かお釈迦様でも無い限り、ナンピトタリトモその影響からは逃れられません。自分に限ってそんな事はないと完全に否定する事は誰にも絶対にデキマセン。

このような意見に対しては、「鰯の頭も。。。」と居直る発言が必ず見られます。それを楽しんでいるマニアご本人達はそれで良いでしょう。他人の趣味にとやかく言う筋合いはゴザイマセンしね。しかし、業界の玄人さん達、特にヂャナリズムがそうであっては決してナリマセヌ。そのような傾向は技術の健全な進化を妨げるからです。そして、オーディオ技術とは何も鰯の頭を信心する特殊な性向を示す信者達(マニア、オタク)のためダケにあるのでは断じてないからです。

業界は、世の中のより多くの人々が、誰でも簡単に、より快適により良い状態で、音楽をより豊かに楽しめるよう、より良い製品をより安価に提供する事に精進しなければなりません。それがプロフェッショナル(クロートさん)のオシゴトといういうものです。そして、何が重要で何が重要ではなく、どの状態が「より良い状態」なのかを考えるにおいて、音楽の専門家(表現者自身)の意見に真摯に耳を傾ける事が重要でしょう。上でも述べたように、オヂオマニア的観点と音楽家的(音楽愛聴者的)観点では意識の置き所が大きく異なるでしょう。オヂオを中心に考えてはモノゴトを大筋で見誤ります。それは信者(マニア)にしか通用しない価値観だと心得るべきでしょう。

ブラインドテストは内容によっては上記のように1人でもできますし、2人いれば大概の事ができます。メディアが真に有用な情報を消費者に提供せぬのなら、自分達で試して見るしかありません。上記2例のように全く意外な結果が得られるかもしれません。

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2013年08月31日 (土) | Edit |
前の記事の続きです。

前記事では、「ハイレゾリューションオーディオの研究 -西口敏行、電気通信大 情報システム研究科 博士(工学)の学位申請論文」という論文の実験結果についてご紹介しました。

そこでは、192kHz/24bitで生録音されたさまざまな音源を使って、21kHz以上の帯域の再生をON/OFFする事で、被験者が超高域の音を弁別できるかどうかをブラインドテストによって評価していました。その結果、特殊な条件(特殊なマイクで録音、琵琶音源のみ、長時間提示、36名中2名のみ弁別)を除いて、被験者が超高域を弁別している(聞き分けている)という有意な結果は得られませんでした。

この結果を見る限り、一般的に可聴帯域の上限と言われる20kHz以上の音成分が再生されても、リスナが(本実験では被験者に演奏家や音源制作者が含まれていたにも関わらず)それを弁別できるケースは非常に稀であろうと思われます。

しかし、音源のハイレゾ化は、可聴帯域の再生音にも影響するはずです。特にビット分解能は周波数には関係アリマセン。また、例えば40kHzでサンプリングした場合、10kHzの波形はたったの4サンプル点で表現されるのに対し、200kHzでサンプリングした場合は20サンプル点で表現されます。つまり、可聴帯域の音でも、より細かく記録されるという事です。前記事の実験では、全て192kHz/24bitの音源を使用し、超高域(21kHz以上)を受け持つ再生装置をON/OFFしていただけなので、このような効果を評価する事はできません。

実は、この論文では、前記事で紹介した実験1と実験2の後で、音源のフォーマットの影響についても実験しており、僕は見落としていました。今回は、その実験結果についてご紹介します。この実験結果は第4章「標本化フォーマットと可聴帯域内の音質」に書かれています。

標本化フォーマットと可聴帯域内の音質

実験条件
- 音源収録では、アナログ出力を3並列にして、48kHz/24bit192kHz/24bitDSDの三種のフォーマットで動作する3台のADCに接続
- ADCには機種とファームウェアが同一のものを使用
- 再生環境は実験1、2と同じだが、21kHz以上を受け持つスーパーツイータをOFFにしている
- 可聴帯域における3種のフォーマットのF特には全く差は見られない

被験者
- 音大生4名(30代男性1名、20代女性3名)、、音源の演奏に加わったバイオリニスト1名(30代女性)、録音技術者1名(30代男性)の計6名

音源
- 邦楽(箏、尺八)、ボサノバ(ギター、女性ボーカル)、「ピアノトリオ」(ピアノ、チェロ、バイオリン)の3種(ステレオ生録)
- マイクは通常の音楽録音用を使用(実験2に使った特殊マイクではない)
- 提示時間は約20~30秒

実験方法
- 微小な差の検出に適したペアテスト法を採用(フォーマットが異なるサンプルAとBから、AA、BB、AB、BAの4種の対をつくり、ランダムに提示し、被験者は音が同じか違うかを判定)
- 30分を1セッションとし、1セッションで24試行、セッション間に10~15分の休憩をはさみ、1日に3セッションを実施
- 各被験者は3日で計9セッションの実験に参加し、全ての比較条件(3フォーマット × 3音源)について24回繰り返し評価を行った

実験結果
- 最も高い正答率は66.7%であった
- 24試行の場合、有意水準5%で有意と判定されるには75%以上の正答率が必要
- 従って、今回の結果からは被験者別に見ても、音源別に見ても、フォーマットの違いは有意に弁別されなかった(聞き分けられたとは言えない)

今回の結果からは「録音現場で標準的に使われる48kHz/24bitあれば十分ちゃう?」という事が伺えます。

しかし、今回の音源にCDフォーマット(44.1kHz/16bit)が含まれていない事は非常に残念です。16bitと24bitの違いは果たして有意に弁別できるのか?については、今回の実験からは何も言えません。現在の民生向け標準フォーマットであるCDフォーマットを改良する価値があるのかどうか?という肝心のところが不明です。

学会におけるこのようなハイレゾの研究では、超高域音を感知できるかどうか(あり/なしを弁別できるかどうか)に焦点が置かれます。また結論も、否定的なものもあれば肯定的なものもあります。言い換えれば、それくらい違いは微小で微妙あるという事です。これらはあくまでも学術的見地による研究です。

しかし、現場現実現物主義の血みどろの民生向け開発者的観点からは、「それによって世のヒトビトがより豊かに音楽を楽しめるようになるのか?」「リソースやコストのの増加に対して、その効果は釣り合うのか?」「総合的に見てそれはヒトビトに真に恩恵をもたらすのか?」という観点からの評価が最終的に最重要であると思います。ScienceとEngineeringでは最終的観点が異なるという事です。

一方、商業的観点からは「高音質!」と謳ってビジネスチャンスを拡げたいのも理解できます(実際、ソースの情報量が多い事に偽りはないですからね)。しかし、そのへんのバランスを適正に保つには、真っ当なヂャナリズムの働きが必要です。イヤホンマニ。ゼッタイニ。例えば写真業界では、一時期の行き過ぎた高画素数化競争(これもハイレゾ化ですね)に対して、各誌がこぞって否定的な見解を述べ、実際にそのような動向は抑制されました。最近は知らんけど。。。

また、現在配布されているハイレゾ媒体がどのように制作されているのかについても注意が必要です。例えば、CD盤の元になった48kHz/24bitのデジタルマスタを単純に変換したものなのか、テープから最新機器を使ってリマスタリングして最先端のADCプロセスを適用したものなのかによって、CD盤との音質差は当然違ってくるでしょう。要は、「CD盤よりもハイレゾ盤の方が音質が良い」と実際に聞こえた場合でも、それが純粋にフォーマットのハイレゾ化によるものなのか、それともリマスタリング等の別の要因によるものなのかは分かりません。そのへんが曖昧にされていると言えるでしょう。

この影響を排除するため、この論文では市販の媒体を用いずに自ら生録した音源を使っていました。これは極めて正しい判断であると言えます。この結果を見る限り、ハイレゾ自体の主観的音楽再生音質に及ぼす影響は、超高域音の有無を含めて、極めて微小である(または殆ど無い)と言えるでしょう。

恐らく、僕が思うに、フォーマット自体よりも、録音エンジニアの技能やセンスおよび現場の録音機器/プロセスの技術的レベルの方が、リスナが感じる音質に対して遙かに大きな影響を持つでしょう。センスのない録音のハイレゾよりも、ハイセンスな録音の圧縮音源の方がずっと音楽を楽しめるはずです。

いずれにせよ、正しい本当の情報が消費者に行き渡る事と、消費者が賢く判断する事が重要です。それを助けるのがヂャナリズムです。短期的には商売の妨げになる事もあるでしょうが、長い目で見れば、業界が発展するには消費者に対して健全である事が何よりも重要です。これは衰退/縮小し続けていると言われる現状を見れば明らかでしょう。

最後に、著者の本研究全体に関する総合的な結論(第5章 結論)の結びの部分を掲載します。
ハイレゾ結論
学会(超高域は弁別できると主張するセンセも居る)および業界をおもんばかった結論のように見えます。

追記
原文には、実験結果以外にも貴重な技術的背景が記載されています。ゼヒゼヒご一読くださいませ。
ハイレゾリューションオーディオの研究 -西口敏行、電気通信大 情報システム研究科 博士(工学)の学位申請論文

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2013年08月29日 (木) | Edit |
前の記事で、オーディオ用圧縮コーデックに関しては、ITU-R (国際電気通信連合 無線通信部門)が定める主観品質評価法(ブラインド評価)に則った方法で音質が評価されている事を紹介しました。

では、巷を賑わすハイレゾ音源についてはどうなのでしょうか?

例によってネットでサーチしてみましたが、確たる情報は得られませんでした。「高音質」が喧伝されているわけですが、その根拠はイッタイゼンタイ何処にあるのでしょうか? JAROさんに叱られないのでしょうか?

サーチ中に非常に興味深い論文を見付けましたので、要約をご紹介します。
PDFで113ページに及ぶ博士号申請論文です。

PDFへのリンク
ハイレゾリューションオーディオの研究 -西口敏行、電気通信大 情報システム研究科 博士(工学)の学位申請論文

以下、実験の内容と結果を要約しますが、原文に目を通される事を強くお勧めします。

実験1
実験システム
-信号は192kHz/24bitでデジタル化
-1024タップの直線FIRフィルタを使って21kHzで可聴帯域と超高域を分割
-再生システムは21kHz以下と以上で独立した系統を持つ
-実験はITU-R BS1116に完全準拠した音響評価質で実施
-2チャンネル ステレオ再生(スピカとリスナ間の距離は3m)
-可聴帯域用スピカにはB&Wの800シリーズ(Diamond)を使ったと思われる(図から推測)
-超高域用には別体のスーパーツイータ(上限70kHz)を使用(歪みを計測して機種選定している)

被験者
-男性30名、女性6名の計36名
-音響関係の研究者と音声制作技術者が33名、学生2名、評価音源の演奏家自身1名
-年齢は10代が3名、20代が12名、30代が16名、40代が3名、50代が2名

音源
-様々な音楽ジャンル、楽器からなる全20種を用意
-そのうち16種は独自録音(演奏家による生演奏を録音)
-生録楽器には琵琶、ジャズピアノトリオ、バイオリン、フルート、ピッコロ、サックス、ボーカル、フルオーケストラ!、ギター等が含まれる
-マイクロフォンには音楽録音用を使用してステレオ録音(40~50kHzまでフラットな特性を持つ、全指向性)
-音源のうち2種類は市販のSACD
-超高域を含むホワイトノイズも音源の1つとして用意
-音量は音源の主要なピークが80dBA(FAST)前後となるレベルを標準とする(僕の標準音量と同じだね)
-被験者は上記標準レベルに対し-3~+5dBの範囲で音量を調整してもよい(36名中26名は標準音量で試聴)

実験方法
-3つのサンプル(リファレンスとA、B)を比較試聴
-リファレンスは必ず超高音域を含み、AとBのどちらかは超高音域をカットした可聴帯域のみの音源
-被験者はAとBのどちらがリファレンスと同じに聞こえるかを答える
-被験者はリモコンを使ってサンプルを自由に切り換えながら音源の任意の位置を繰り返し聞くことができる

結果
-音源ごとの正答率を見ると、特に有意な音源はない(被験者が超高域の有無を弁別していると言える音源は1つもない)。敢えて言えば、超高域のレベルが高く、かつ、超高域成分が非定常(変化する)音源の正答率は比較的高いと言えるかもしれない。
-被験者ごとの正答率を見ると、1名だけ(17才の女性)が有意(聞き分けている)とみなせる結果を出したが、追試の結果では有意とみなせる結果は得られなかった。
-結局、実験1では20種の音源を用い、36名の被験者で評価を行ったが、音源別および被験者別どちらで見ても、有意な弁別結果(確かに聞き分けているという結果)は得られなかった。


実験2
実験1の結果で超高域成分が高い音源の正答率が比較的高いように見える事、また音源の提示時間が影響する(ある程度長い時間聞くと超高域を関知できる)とする学説がある事から、追加の実験が行われた。

実験1との相違点
-100kHzまで高い感度を持つ音楽録音用の広帯域マイクロフォンを新たに開発して音源の録音に使用
-このマイクの感度は、10kHz以下よりも超高域感度が10dBも高いやや極端な特性を持つ
-被験者にある程度長い時間聞かせるために試聴方法を変更(音源の提示時間を85~120秒と長くした)
-音源には弦楽四重奏、筑前琵琶、ハープシコードの3種類を用意
-特に琵琶では21kHz以上の超高域が常時40~50dB出ており、70dBに達する箇所もある(帯域も70kHzまでと広い)
-被験者は男性5名、女性8名の計13名
-音楽大学学生7名、音大教員3名、作曲家2名、演奏家1名
-年齢は19~51才

結果
-13名中2名の被験者(20才女性と30才男性、ともに音大学生)が、「琵琶の音源でのみ」超高域の有無を有意に弁別できた(有意水準5%の二項検定)
-音源の提示時間を20秒程度に縮めた場合、上記2名+琵琶音源でも超高域を有意に弁別できなかった
-上記2名に対して純音の閾値測定を行ったところ、22kHzの閾値は90dBを超えており、直接的に琵琶音源の超高域を聴取できたとは考えがたい(単純に耳で聞こえたとは思えない)
-従って、上記2名が超高域の有無を聞き分けたメカニズムは不明である

以上です。

僕の感想としては、
非常に信憑性の高い実験であると思います。リスニング位置での測定で実際に超高域成分が再生されている事も確認されており、再生装置としては申し分ないでしょう。また、被験者の選択も適切だと思いますが、ハイレゾの音質が良いと喧伝するオヂオヒヨロンカ達にもゼヒ参加して頂きたかったと思います。

結局、特殊なマイクを使って録音した特殊な楽器(琵琶)の音源を長時間提示した場合のみ、2名の被験者が辛うじて超高域を弁別できた(正答率70数%)というのが結論です(半ば無理矢理感が漂っている)。そして、その弁別は単純に耳で聞き分けたとは言えないという事です。この実験結果を見る限り、一般的な人が、一般的に市販されているハイエンド装置を買って、一般的に配布されているハイレゾ音源を再生しても、まずその違いは弁別不能であろう。。と言えそうです(プラセボ効果を排除すれば。。。という前提でね)。

共に音大生という事ですから、「あなたは、この音楽を愛聴するにおいて、この超高域が聞こえる事をどの程度重要だと考えますか?聞こえる事が好ましいと思われますか?」という質問も是非投げかけて欲しかったと思います。最終的に重要なのは、聞こえるか聞こえないかではなく、聞こえる事によって何か得る物があるのか、それが音楽を愛聴するにおいて果たして如何ほど重要なのか?という事ですからね。アッタリマエですが。

徒なハイレゾ化は計算処理負荷、通信負荷、ストレージ等のリソースを浪費します。すなわちエネルギや資源を浪費するという事です。また、末端ユーザの経済的負担も増加します。世界的に見て裕福なヒトビトはほんの一部に過ぎません。音楽は全人類の貴重な財産です。世の中に対する真の有用性が明らかにならぬママ、商業的思惑によって、このような媒体がなし崩しに標準的な規格として普及してしまう事は非常に危険です。これからの時代、そいう考え方が必要です。ゼッタイニ!

ソレハソレのソレと明確に位置付けて(つまり、上記のような評価をキチント実施して、一般大衆を徒に煽るのではなく、正しい客観的情報を公開した上で)、「ソレでも、敢えて、、」と言うマニアック層向けに限定的に配布される事を僕は望みます。

また、これは「ハイレゾ」に限った事ではなく、常識的に考えて異常に高額で怪しげな製品や根拠不明の論が横行するオヂオ界全般に言える事でもあると思います。これらの動向をプロフェッショナルな(クロートさんの)観点から監視して警鐘を鳴らすのがヂャナリズムの重要な役割であると思うのですが。。。。。。逆に煽ってね?

追記
ハイレゾに関しては、もう1つの観点からの評価が必要です。すなわち、超高域まで再生できる装置を使ってサンプリングレートとビット分解能の異なるソースを比較する必要があります。例えば24bit/192kHzと24および16bit/44.1kHzの比較です。そのような評価結果もネットで見つかったら、またご紹介したいと思います。

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2013年08月28日 (水) | Edit |
ハイレゾ音源の音質に関して主観評価を行った
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2013年08月27日 (火) | Edit |
ネットラジオ局は星の数ほどありますが、僕が最もお勧めするのは AccuRadio(コチラ)です。全てのジャンルを極めて多数のチャンネルで網羅しており、完全無料サービスですが鬱陶しい宣伝も殆ど入りません。

最近またAccuRadioをよく聴くのですが、なんだか以前よりも音質が良くなったような気がします。

ラジオ局によっては、比較的高いビットレートでも、特にクラシック曲(バイオリン等)で音質の劣化に違和感を覚える事があります。しかし、AccuRadioでは、クラシック チャンネルをモニタヘッドフォン(有線)で聞いても、そのような違和感を殆ど覚えた事がありません。交響曲でも十分ヤン!という感じ。ただし、この局のクラシック チャンネルでは、1曲の全楽章が通しで流れないので滅多に聴きません。これは改善して欲しいですね。

AccuRadioのビットレートやコーデックは明確には公表されていないのですが、同局のFAQページを見ると、32kbpsでストリーミングしているという局側からのコメントが見つかりました。たったの32kbps???音質が良いので、ちょっと俄には信じがたい値ですが、HE-AAC等の高度なコーデックを使用しているものと思われます。

これらのコーデックの音質評価には、ITU-R (国際電気通信連合 無線通信部門)が定義する各種の主観品質評価法(多数の被験者によるブラインドテスト)が使われます。特に、オーディオの圧縮コーデックの評価にはMUSHARA (ITU-R BS.1534)という評価法が使われるそうです(詳しくはコチラ参照、以下抜粋)。

MUSHRA法では、一度にリファレンス音(原音)と複数の評価対象音、隠れ基準(リファレンス音)、隠れアンカー(最も劣化の大きな音)を提示でき、評価者が自由に切り替えて聞くことができる。リファレンス音以外の提示の順番はランダムに変わり、どれが隠れ基準/隠れアンカーかも分からない。評価は5段階の連続品質尺度を用い、平均オピニオン評点の「非常に良い(Excellent)」~「非常に悪い(Bad)」までの段階を 100 から 0 までの連続値で表す。

以下はジャズ専門ラジオ局JazzRadio (コチラ)の設定画面に記載されていた各コーデックの音質レーティングです。
40kbps HE-AAC: Good (無料サービスはコレのみ、他のは有料)
64kbps HE-AAC: Good
128kbps HE-AAC: Excellent
256kbps MP3: Excellent

MP3 256kbpsはExcellentに格付けされています。以前にも書きましたが、僕はモニタヘッドフォンで真剣に比較視聴してもWAVと256kbps MP3の違いは分かりませんでした。なのでこの「Excellent」ランクには納得できます。128kbps MP3はなんとか聞き分けられましたが192kは試していないので分かりません。

HE-AACだと128kbpsでExcellentにランク付けされています。このように、HE-AACは高い圧縮比でも主観的音質の劣化は少ないとされます(詳しくはコチラ、以下抜粋)。

HE-AAC v1 では、そのレートより若干低いAAC音声データに SBR と呼ばれる部分を追加して記録している。 行程は、はじめに高周波数部分において、圧縮後のサンプリングレートで失われる周波数以上を抜き出す。このとき、エンコード部分に収まる部分との関連性を調べ、SBR部分の情報として圧縮する。その後、低サンプリングレートで通常通りAACとして圧縮を行う。 そして、この二つのデータをセットにして記録する。 デコードする時にはまず、AACをデコードした上で、SBRを使い高音域を予測して生成したデータを合成し、再生を行う。
「48kbps程度のレートでCDの音質を実現している」とされる。48kbpsでMUSHRAが80点 (Excellent) である。24kbpsでは HE-AAC v2 で Good である。全てのビットレートで AAC < HE-AAC v1 < HE-AAC v2 と音質が改善されている。


HE-AACにはv1とv2があり、v2では48kbps以下の音質が改善されているそうです(上記によると48kbpsでCDレベルのExcellent、ホンマ?)。上記の内容からすると、JazzRadioのHE-AACはv1かもしれません。また、AccuRadioがv2を採用しているとすると、32kbpsという値も十分に現実的であるように思えます。AccuRadioの音質がなんだか良くなったように聞こえるような気がしないでもないような気がするのは、v1からv2に変わったからなのかな???それとも単なる気のせいかな???

上で述べた主観評価(ブラインドテスト)では、被験者がサンプルを自由に切り換えながら何度でも試聴を繰り返す事ができます。以前の記事で紹介した自動車の車室内音の主観評価試験でも、そのような方法を採りました。このような評価方法は、学術目的等、正確で公正な結果を公にする場合には当然必要となります。ヂャナリズムもね。

しかし、ご存じのように、僕はトッカエヒッカエによる直接的な相対比較を嫌います。「音」ではなく色々な「音楽」を長時間聴いてみて違和感を覚えず快適に楽しめれば基本的にOKと判断します。だって、それが「目的」ですからね。

その意味で、AccuRadioとBluetoothは「僕にとって」全く「OK」です。そりゃぁアンタ、FrieveAudioのWAV再生と直接比較したら、多少の違いはあるでしょうが、単独で聴いて特に違和感や不快感あるいは不自然さとか聴きにくさを感じなければ、つまり十分快適に音楽を楽しめれば、ヨシとするという事です。つまり最終的に、相対比較ではなく単独で絶対的に評価して「OKヤン」とか「エーントチャウ」と判断する事を重視します。このような「自分なりの」絶対的評価軸をある程度持たないと、グルグル相対評価を永遠に続ける事になるでしょう。

LEANAUDIO初期の経験によると、トッカエヒッカエによる直接的相対比較を繰り返すと、非常に微小な差違に必要以上に囚われてしまい、オトの違いをキキワケル事自体が目的になってしまいがちになります。比較すればするほど微小な違いが気になりだし、しまいにはドッチが良い/悪いではなく単に「違う」という領域に突入するでしょう。そして、本来の目的である「音楽をより快適により深く楽しむ」という目的からどんどん離れてしまうでしょう。頂上(大目的)の方向を見失った樹海内の彷徨(相対比較)に陥るという事です。僕は、ある段階でその事に気付き、以来トッカエヒッカエを殆ど止めました。

これは、オーディオに限らず、人間がある目的をもって行動(例えば開発等のプロジェクト)を開始した後、ある段階まで進むと陥りやすい状況です。これを僕は「泥沼」とか「富士の樹海」と呼びます。彷徨する事自体を趣味として楽しむのでなければ、つまりオーディオ装置を「音楽を日常的により良く楽しむための実用道具」として使うのであれば、その轍を踏む必要はないでしょう。

追記
いわゆる「ハイレゾ」の音質に関しても、上記のような明確な定義に則った評価が行われているのでしょうか?「コーオンシツ」を高らかに謳っているようですが、実際のトコロどうなのでしょうか? CD規格の策定においては、大々的な音質評価が行われたと聞きます。新しい規格のメディアを立ち上げるに際して、それは当然でしょう。ドナンデショウカ???ハイレゾって。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2013年08月17日 (土) | Edit |
現在主流のオヂオ趣味は骨董趣味的要素が非常に強いように僕には思えます。最新機器を使う場合であっても道具を道具として使うのではなく道具自体を愛でる傾向が強いと言う意味で「骨董趣味的」という表現を使っています。

共通点を挙げてみると
1)「選ぶ」「買う」「所有する」「収集する」という行為に重きが置かれる(従って延々と売り/買いを続ける)
2) それらの品をその品本来の目的で「道具として使う」というのが主目的でない、あるいはその目的意識は希薄
3) それらの品の個性や趣(おもむき)を「愛でる」
4) 同好者の間で品評し合う事、および価値観を共有し合う事を慶ぶ
5) 値付けの基準が曖昧

オヂオに限らず、物自体に拘る趣味は多かれ少なかれこのような傾向を持ちます。例えばクラシックカメラやクラシックカーの収集を趣味にするヒトビトは明らかにこの傾向を示します。しかし、業界全体に対するそのようなマニアック層あるいはマニア的傾向の影響力は、オヂオ分野がダントツに強いと言って良いでしょう(未だに、そのようなオヂオがヒエラルキの頂点であるかのように扱われ、ソレハソレコレハコレが明確に認識されていない)。

このように実用道具(工業製品)に強い趣味性を見出すのは概して「男性的」領域であると言えます。ですから、上記傾向が非常に強いオヂオ趣味が年輩のオヂサンばかりなのは当然でしょう。骨董趣味もそうですよね。

これに対し、女性は概してジュエリーやファッション等、身を飾る装飾品を嗜好する傾向が強いと言えるでしょう。オシャレが大好き。また、最近は美容に結び付いた「健康」が重要キーワードとなりました。ヨガは歴史的には主に男性が行ったものと思われますが、今や圧倒的に女性向けですもんね。男がやるにはちょっと勇気が必要なくらいです。

従来男性主体的であった趣味分野への女性の進出が著しいですが、彼女達にとって「オシャレ」が重要である事に変わりはありません。

例えば、写真分野では、女性作家が大活躍するようになり、一般の女性達もデジタル一眼レフを当たり前に使うようになりました。たまにクラシックな銀塩一眼レフを首からぶら下げている女の子を街で見かけますが、あれはオシャレの小道具(最近は銀塩カメラの中古が安い)か、さもなくば写真学校の生徒さんです(今でも銀塩から始めるのかな?)。僕の姪も欲しがっていました。

また、ランニングや自転車をスポーツとして本格的に楽しむ女性がすっかり定着しました。その大きな要因はファッションと健康(ダイエット)、そして最近目立つ女性アスリート達のオシャレ+カッコ良さにあるのでしょう(現在のランニングブームにはQチャンの活躍が大きく影響したように思います。なんか、それまで「苦しい」イメージだったマラソンがすごく楽しそうに、また可愛く見えました。僕もQチャン後にマラソンを始めた口です。今開催中の世界陸上見ましょう!女性アスリート達には惚れ惚れしますよ)。

ランニングウェアなんか、今や女性用の方が圧倒的に品数が豊富です。街でみかける女性のランナーやサイクリスト達、それに山で見かけるハイカーさん(ヤマジョ?)達、みんなオシャレですもん。女性にとってはオシャレを楽しめる事がとても重要です。オシャレでないと多くの女性は近付かぬでしょう。オヂサン臭いのは駄目。

僕は結婚するまで自転車ロードレース(草レース)を存分に楽しみました。自転車ノリはまずカッコ良さ。レーパンにチームジャージ、ヘルメットにグラサン。ツールのビデオを見てカッコ良さを研究したものです(フォームだけでなくボトルの飲み方とかもね)。レースではみんなすね毛を綺麗に剃っていましたしね(剃っていない方が汚くてハズカシイ)。

その当時、自転車でも女性は少なかったですが、ランニングはもっとオッチャン スポーツ的で、荒川の土手でタオルを鉢巻きにしたオッチャンが、シャツに汗のシミをベッタリ付けて苦悶の形相で前のめりに走っているというイメージがありました。さもなくばイカニモ陸上部風ランパン+ランシャツ。当時、そんなランナー達を横目に見ながら、仲間と集団を組んで荒川の土手をかっ飛ばしていた自分が10年後にマラソンやウルトラマラソンを走る事になるだなんて思いもしませんでしたよ。趣味人口が増えるにはカッコヨサが絶対に重要です。憧れの対象がオヂオヒヨロンカのオッチャンぢゃぁねぇ。。。

また、最近の若い男の子達は、草食系男子と言われるように、女性的傾向が我々オッチャン達よりも強いかもしれません。自動車なんか欲しがりませんもんね。基本的に物欲はオヂサン達よりも希薄でしょう。良い傾向だと僕は思います。反面、未婚のバリバリ キャリアウーマン達のオヂサン化という傾向もありますね。お金も持ってますし。オヂオ業界としては、そのへんを狙いたいのでしょうが、マーケットはまだまだ微小でしょう。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2013年02月09日 (土) | Edit |
当ブログを始めたのが2009年2月ですから、4周年を迎えた事になります。また、もうすぐ70万ヒットを迎えそうです。いつもご愛読ありがとうございます。

何度か書きましたが、4年前に必要に迫られてLEANAUDIOに着手するまで全くオーディオに興味がなかった僕ですが、オヂオ界を覗いてみて、その俄には信じがたい魔境状態に激しく驚かされ、呆れ果て、強い違和感を覚えました。その時感じたのは、玄人さんも素人さんも含めて総じて余りに「naive」であるという事です。

研究社 新英和中辞典
naive
【形容詞】
1 a(特に若いために)世間知らずの; 単純[素朴]な; 純真[うぶ]な; だまされやすい.
b【叙述的用法の形容詞】 〔+of+(代)名 (+to do) / +to do〕〈…するとは〉〔人は〕単純で; 〈…するとは〉〈人は〉純真で.
用例 It's naive of you [you're naive] to trust everyone. だれでも信用するとは君もうぶだ.
2(特定の分野に)未経験な; 先入的知識のない.

【語源】フランス語「生まれたままの」の意


その他の辞書も調べましたが、
単純な, 世間知らずの, だまされやすい,〈行為・話が〉無邪気な, 純真な, 幼稚な, しろうとの, 情報または指導が欠如しているさま, 正式な訓練のない人によって作られる,
等の意味が挙げられています。

ちなみに和製英語としての「ナイーブ」は比較的良い意味で使われますが、naive の一般的な意味とはニュアンスが異なりますので注意が必要です。
ナイーヴは、「繊細」、「純粋」で傷つきやすい、あるいは、素直で飾り気がないを意味する和製英語の形容動詞として使われる。

一般の素人さん達がnaiveであっても許されるでしょうが、業界の玄人さん達までnaiveであっては困ります。あるいは、素人さん達のnaiveさが悪用されたりしては決してなりません。

大衆の行き過ぎたnaiveさというのは非常に危険であり、それを悪用する者が現れれば、また、そのような者がメディアを操作すれば、それはもう瞬殺イチコロに制御されてしまいます。ヒトラがその典型でしょう。高度成長期ではnaiveに突き進めば済みましたが、次に向かうべき方向が見えない今の日本の状況では、メディアどぶ漬け状態の大衆のnaiveさは非常に危険であるように思います。新聞やTVを鵜呑みにしちゃぁイケマセン。通販生活のようなオヂオ雑誌を鵜呑みにしちゃイカンのと同じです。必ず背後にスポンサー(諸々の利害関係と権力)が隠れているという事です。ホンマノホンマニソーナンカ?とヒトリヒトリがヂブンなりにヨック考えてみないといけないという事です。

ヒトラーのような輩が現れるよりは、頼りなく無能であっても根が善良な政治家が迷走している方が余程マシだと僕には思えます。ちなみにヂミントーが圧勝しちゃいましたが、僕にとっては最もアリエナイと思える選択肢でした。既得権を持つオッサン達の思惑に関係なく、歴史的スケールで観じるならば、ヂダイは既に大きくモードチェーーーーージし始めています。悪あがきしても無駄だと思うんだけど。それより早めに流れに乗って舵を切った方が先々お得だと思うんだけどなぁ。大丈夫かな???

僕は音楽のみならずアート全般に触れる際に、たとえ文学作品を読む際でも、理性を後退させてフニャーと精神を弛緩させる(モードチェーーーーンジする)と何度か書きました。またライナーノーツ等ヒヨロンカ達が書いたものは極力読まず一切信じず、余計な知識/情報/蘊蓄をできるだけ仕入れないようにしているとも書きました。このため30年近く散々聴いたアルバムでも未だに曲名とかメンバーとかの知識は極めてアヤフヤです。これはすなわち作品に(あるいは作者に)できるだけダイレクトにアクセスしたいがためであり、そのためにある意味できるだけnaiveでありたいがためです。高校生の頃にソレがイチバン楽しめる方法だと気付きました。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用
2012年06月16日 (土) | Edit |
どのような機械にも、できる事とできない事があります。それをよくわきまえないと、スットコドッコイな事が起こりがちです。

例えば、「写真」は決して真実を写しとったりはしません。それは撮影者がある意図を持ってその場の一部の一瞬の情景を四角く切り取った「二次元の映像」に過ぎません。その「映像」の外側に何があるのか、その「映像」の時間的前後の状態がどうであったのか、「映像」に映っている木の向こう側に何が(例えばライオンが)潜んでいるのか、鑑賞者にそれを知る術は何もありません。

同様に、オーディオ装置では、配布された媒体を遡って「生の楽器のオト」(多くの場合「原音」と言われる)や「生の音場」を「再現」する術はありません。我々「鑑賞者」にできるのは、「表現者」たるアーチストさんやエンジニアさん達プロの専門家がマイクで収録して様々な加工を加えた後にスタジオのモニタシステムで聴いて最終的に「これが俺様(達)の作品だ!」と承認した状態にできるだけ近い状態で素直に聴く事だけです。これとて、装置や部屋の音響特性が異なるため、正確に「再現」する事は不可能ですが、近付ける事はできます。

元々ナイモンは無いんです。無い袖は振れまへんなぁ。。です。「鑑賞者」である我々としては、そこに元々無いものを徒に追い求めるのではなく、そこにせっかく含まれている貴重なものを、出来るだけタクサン、出来るだけ善い状態で感じ取って楽しんだ方が断然お得だと、それがオーディオ装置にできる最大限の事であると、ハチマルは絶対にそう思います。

そんな事は百も承知の上でロマン?を追い求めるのがオーディオ「趣味」なのだ!というのであれば、それはそれで全く問題ありません。「趣味」ですから。しかし「それがオーディオだ」というわけでも、それが最も「ジョートー」なオーディオ装置の使い方というわけでも、ましてやそれが「音楽」を真に楽しむという事でも、全く決して断じて無いという事が、やっているマニア達自身、一般ユーザ、業界全体を通して明確に認識されているのかどうか甚だ疑問です。例えば、鉄道分野であれば、鉄道は万人にとっての実用輸送/移動手段であり、マニアがやっている事は、それに特殊な愛着やロマンを感じる一群の人々がやっている「趣味」である事は、マニア達自身も含め万人があたりまえに認識しています(マニアが一般人に対して偉そうに電車の乗り方に関してアーダコーダ決して言わぬでしょう。彼らは決して上等で偉い鉄道の使い方をしているなんて微塵も思っていません)。ハチマルも様々な趣味を楽しんできましたが、鉄道に限らず、どの分野でも、そのへんの認識は自然になされています。どうしてこの領域だけがこのような状態になってしまったのか。。。人間集団の行動(社会現象)やマスメディアの影響を考える上で、恰好の研究材料になるのではないか? と、ついつい色々と考えさせられてしまいます。

もし、本当に「原音再生」をツイキューしたいのであれば、自分の部屋で「生の音」を発生できるナニカ(楽器でも奥さんの声でも、なんなら他のオーディオ装置で再生したオトでもなんでもヨイ)を自分で録音し、それを再生して「生の音」と直接比較するしかありません。実際、そのようなマニアさんも居られます。これぞ真正オーディオマニアと言えるでしょう。これであれば目的も極めて明確ですから、カンセーだジョーカンだオンガクセーだゲージツセーだイヤシだナンダカンダの出る幕はないため、ヘンテコリンな泥沼にはまる事もないでしょう。恐らく、ロマン?たっぷりに肥大化した主観的「ヨイオト」に比べて、視覚情報(目の前の実体)を伴わない「原音」は意外と地味に聞こえるはずです。「ヨイオト」のツイキューと「ゲンオンサイセー」のツイキューは相反するのではないでしょうか。片方は全くの主観であり、他方は全くの客観であるわけですから、もし一致するなら、こんなヘンテコリンな状況にはなりはしませぬわいな。

通常の音楽媒体では、そのへんも鑑みて、製作時に各種のエフェクタを使った演出効果が既に加えられています。そのような媒体に「原音」を求めると富士の樹海行きなのは明白でしょう。媒体は媒体として、完結した一個の作品として素直に楽しむのが何よりだと、ハチマルはそう思います。

前の記事に頂いたコメントを受け、相変わらず同じような事をシツコク書いてしまいました。ご容赦。

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