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2012年12月12日 (水) | Edit |
前記事の続きです。

当ブログで再三書いてきたように、オヂオマニア達(すなわちオヂオヒヨロンカ達)の言動や行動には強い違和感を覚える事が多いのですが、その中でも最も根源的なのが、彼らの言う「ヨイオトのツイキュー」というヤツであろうかと思います。

彼らは一様に「少しでも「ヨイオト」を目指してツイキューする」のだと言います。「良い」はちょっとアレだから「自分の」という人も居るようです。しかし僕は、オヂオマニア用語としての「オンガクセー」とか「オンガクカのジョーカン」とやらと同様に、この「ヨイオト」(「ヂブンのオト」を含む)というヤツにも強い違和感を覚えます。また、この「ヨイオト」というヤツこそが、それら全ての違和感の根源であるようにも思えます。

「良い再生」というならばまだわかります。しかし「良い音」とは一体全体ナニを指すのでしょうか???

music.jpg
上の図にもあるように、作品(媒体)に記録された「音色」や「ニュアンス」は三大要素と同様に音楽作品(表現)を構成する重要な要素であり、これらは基本的に表現者が自分独自の表現を先鋭化するために追究して決めるべき事項です。鑑賞者がそれに対して「好きだ」とか「嫌いだ」というのは全くもって自然です。また、その表現が「嫌い」であれば聴かなければ済む話です。しかし、やたらと「ヨイオト」とか「ヂブンのオト」とか、さもそれが音楽再生(鑑賞)において最重要であるかのように彼らが言い出すと、僕は全く混乱してしまいます。

表現者が媒体に込めて世に配布した「作品」(表現行為の結果)を鑑賞するにおいて、表現者達が独自の表現を求めて先鋭化させた「リズム、メロディー、ハーモニー」(三大要素)と「音色やニュアンス」を存分に楽しむには、それらを正確に自分の耳まで伝達する事が「音楽再生」における基本中の基本であるのは全く当然でしょう。これには周波数特性と位相(静特性と動特性とも言える)をある程度正確に耳に伝達する(つまるところ記録されている音の波形(圧力変動波形)を自分の耳にある程度正確に伝える)事が必要です。アッタリマエですよね。

もちろん、一般ユーザがブツリトクセーを気にする必要など全くありません。ソンナモン気にしなくても、ポンと買ってポンと置けば済む真っ当な音楽再生装置が当たり前に安価に世の中に出回ってさえいれば。。。それが存在せぬがために僕はLEANAUDIOに着手せざるを得なかったわけで、適正価格で売ってりゃ最初っから買いマンガナ。メンドクサイ。。

さて、これはLEANAUDIOトライアルを通して強く実感した事でもありますが、正確に再生すればするほど、音楽が自然な音で聴きやすくなるし、結果として表現者にアクセスしやすくなります -(つまり感覚(人間の五感)では捉えられない、その音楽のホンシツである上層(超感覚)レベルにアプローチ(シンクロ)しやすくなる)。また、マイクロフォンは相当十分正確に音を捉えており、それを良質で素直なスピーカ(例えばAlpair)で全く素直に再生すれば、十分に自然な(ある意味「良い」、ある意味「リアルな」)音で聞こえるように僕には思えます。

これに対し、マニア達は一様に「ブツリトクセー」を軽視します。そこには蔑視あるいは嫌悪のニュアンスすら感じられます。「音楽を聴くダケなら」等の発言にも、それが伺えます。

しかし僕には、ある種の「音楽」は人間一個人が構築し得るものの中で最も複雑かつ精妙なる時間軸方向の変化を伴う構造体であるように思えます。とても「ダケ」とか「単純な」とか言えるような代物とは思えません。

では、僕にとってはこの上もなく重要に思えるのに彼らにとっては「ダケ」とか「単純な」に過ぎないソレ以外のナニを、彼らはそのように重要と考えツイキューしているのでしょうか?

大分以前になりますが、同様の事を当ブログで書いたところ、ある読者の方がたった一言「フンイキ」と書いたコメントを寄せてくださいました。これは僕には非常に象徴的であるように思えます。

僕が思うに、彼らは上図に書いた最下段の部分「臨場感等、装置による付帯効果」(オンジョーノヒロガリ、クーキカン、シズルカン、アタカモソコニイルヨーナ、オクチノカタチヤオーキサ等々)に異常に強く拘る傾向にあるように思えます。彼らがツイキューしているのは、どうやらこの領域にありそうです。確かに、この部分をツイキューしようと思えば、ブツリトクセーは邪魔でしょう。好き勝手できませんからね。また、これより上の部分を真っ当に再生するのに今時の技術レベルからしてヤタラ高額なソーチ(過剰な装置の個性)は不要です。要はオタノシミの部分が限られてしまうので「趣味のオヂオとしてはツマラナイ」という事なのだと思います。きっと。

彼らの中には、ブツリトクセー的に整った再生を「音楽を即物的に聴く態度だ」と言う者もいます。しかし、僕には、装置そのものや装置の付帯的音の現象(つまり感覚器官で捉えられる下層の表層的音の現象)に異常に拘る彼らの態度の方が余程「即物的」に音楽に接しているように思えます。なんというか、彼らは音楽を通して意識が上層へ向かうのではなく、「リンジョーカン」とか「ナンチャラカン」とか自分に分かりやすい下層へと意識が向かう傾向が異常に強いように僕には観じられます。以前の記事で書いた「オヂオマニアのように高額なソーチの音や音の付帯的現象の微小な差異に過剰に拘る事と、再生音楽(表現者の行為の結果としての音楽)を鑑賞する事は全く別の行為です。過剰な場合は相反するとさえ言えるでしょう。」というのはそう言う意味です。図でも矢印は逆向きですよね。

もっと本当に自分が好きな、自然にシンクロできる、自分の魂が本当に求める音楽を素直に聴けば良いのに。。。と思わなくもありません(何もクラシックだけが偉い音楽ではアリマセン。アレはアクマデモあの時代の最新流行音楽であり、稀に時代性を超越してスッゲーのもあれば、フツーにフツーなのもフツーにあります)。あるいは、本当に自分が好きな音楽、自分らしい音楽との接し方を見つける前にオヂオ趣味(雑誌、ヒヨロンカ、マニア)に強く影響を受けすぎたのではないかとも思えます。

さて、マタマタ、イロイロ偉そうな事を書きましたが、僕だってナニもこんな難しい事を考えながら今まで音楽を聴いてきたワケではアリマセン。そもそも考える必要などなかったし。。しかし、この業界全体の現状や、業界に強い影響力を持つオヂオマニア/オヂオヒヨロンカ達の言動/行動を見るに付け、激しい違和感を覚え、ついつい深く考えさせられてしまいます。

もちろん音楽をどう聴こうが全く個人の勝手ですし、逆に多様であるべきだとも思います。

しかし、マニア達の言動や行動がオヂオヒヨロンカ的に画一化されているように見える事が非常に気になります(たとえヒヨロンカに対して批判的な態度をとっていても、結局みんな一様にヒヨロンカのように音楽を聴き、ヒヨロンカのような事を言う)。。マニア達(すなわちヒヨロンカ)のようなオヂオ装置の使い方や音楽との接し方はかなり偏って特異であり、それが音楽に触れる上で最良、最上等、最高級なものでは断じて決して全くナイという事が、彼ら自身も含めてオヂオ界全体で明確に認識されているのかどうか甚だ疑わしく思われます。

別にそんな聴き方をしたかったワケではないのに、ヒヨロンカ達やマニア達やショップのオッサン達がやたら偉そうに、さももっともらしく言ったり書いたりしているの見て、音楽はそのように聞くのが上等で偉いのだと思い込まされている人も多かろうと思います。音楽をより良く楽しむには、ツイキューしてショージンする迷府魔道のオヂオ道とやらが必要だと。。どでしょうか??少なくとも僕には全くそうとは思えませんし、世間一般(特に青少年少女)にそのような認識が植え付けられてしまう事を非常に恐れます。どでしょうか??よく考えてみてください。

またキッツイ事を書いてしまいましたが、一定の特異な性向を持つ人々によって自然と形成される「趣味道楽」の分野(同好のコミュニティ、最近はオタクと言われる)があっても全く構いません。どこの分野でもそうです。それどころか、それらによって豊かで多様な文化が形成され、それらの中から新しい普遍的文化が生じる事すらあります(アキバのオタク文明(オヂオぢゃないよアニメとかね)もそうなりつつあるように見える)。従ってそれが無上に楽しい人は存分にとことんソレを楽しめば良いと思います(しかし道楽と心得て一般に対してエラソーにする必要はない)。ただ、業界全体がそのような特異な方向に強く偏向され、より多くの一般人向け製品の技術の進展が阻害されるのであれば、それは社会的問題であると言えます。

まあ、僕は「世界中が同じ音質で聴けるようにシテクレー」という彼らの願いが1日も早く叶う事を望んでいるだけなんですけどね。とっくに21世紀なんだしさ。。。スンマセンね。。。

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