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2013年12月31日 (火) | Edit |
さて、今回は、大胆にも、般若心経の「色即是空」をハチマル流に技術屋的に解釈してみます。

[色即是空]
現世に存在するあらゆる事物や現象はすべて実体ではなく、空無であるということ。
▽仏教語。「色」はこの世のすべての事物や現象。「空」は固定的な実体がなく空無であること。


森羅万象は一時たりとも留まらぬ波動であると書きました。波は常にゼロ点を中心に+側と-側に振れます。僕が前の記事で書いた「ニュートラルな状態」とか「フニャーーーー」の状態とはゼロ点の状態と見なす事ができます。

ゼロではない状態とは、バネが縮まった(または延びた)状態とか、+または-の電圧がかかった状態と考える事ができます。つまり「ニュートラル」または「フニャーー」の状態に対して「ポテンシャル」または「ストレス」が発生した状態です。

「僕達が五感で認識できる現象」「現世に存在するあらゆる事物や現象」つまり色即是空の「色」は、このように一時たりとも留まらずに変動するポテンシャルまたはストレスによって顕在化する。。。とハチマルは考えます。そして、そのように僕達には明らかに顕在するように見える現象も、実はゼロ点の前後で振動しているだけですから、平均化するともともとのポテンシャルはゼロ(「空」)やん。チャンチャン。。。。

というのがハチマル流「色即是空」の解釈です。自分を常時完全にニュートラル状態に制御する事ができれば、森羅万象は消え去ってそいつはもうニルヴァーナ(「吹き消すこと」「吹き消した状態」)ってやつですかね。

これらのポテンシャル変動は様々な要因(僕達に知る由もない神さんとか宇宙の都合とか趣味かな?)によって発生しているのでしょうが、そんなに揺らさんといてチョーダイとお願いしたいトコロです。また、。。たしか仏陀は、神さんの都合まで知る事はできないし知る必要もない。。と言っていたような気がしないでも無いような。

以上は、ハチマルの技術屋頭で考えた事(概念知)に過ぎません。瞑想にせよ何せよ、本当の目的は、そんなような事を頭ではなく純粋な直観で心底から「ア、ソーナノネ、フムフム」と納得できるようになる事(直接知)でしょう。それは難しい。。。そんなんできたら仏陀ヤン。

という事で、良いお年を!

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2013年12月30日 (月) | Edit |
前の記事が中途半端に終わってしまったので誤解を招くかも知れません。瞑想中に前の記事に書いたような事をイメージしろ。。という事では全然ありませんのでご注意ください。

という事で、今回は前回の補足です。

前の記事で、森羅万象は様々な周期が重なりあった、一時も留まらぬ「波動」(ムゲンノフーリエキュースー)だと書きました。もちろん、僕達自身もあらゆる面で常に変動しています。刻一刻と老い続けて「死」に近付いておるわけですしね。一時たりとも同じではアッリマセン。しかし、自分の事なのに、この変化に気付かず、それまでの習慣や外的因子(巷の情報や他人の言う事等)に引きずられてしまいがちです。僕の実体験で言えば、基礎代謝量が加齢と共に低下しているのに、習慣として以前と同じ食事量を摂取し続けたために太った。。。とかね。肥満というのは、ストレスや外的因子によって自分の身体の要求が全く聞こえなくなっている状態ではないかと思います。ヨガがダイエットに効くというのは十分に考えられます。僕自身、別にダイエットを心掛けたわけでもないのに、気が付くと3kg減りましたからね。。。。

今の時代、僕達は巷に溢れる情報(とりわけ情報提供者の利潤のツイキュを目的とする一方的な(バイアスのかかった)情報、はやいハナシが殆どは巧妙に仕組まれたコマーシャル)に翻弄されています。ヂャナリズムだって利潤ツイキュ機構に組み込まれた一員ですから、全然信用できません。過去のジャナりズムには存在したであろう信用に足る倫理観念(自分のオッシゴトに対する誇りや自負)が組織の利潤追求の前に屈しているのが現状のように見えます。

そんな情報が溢れる中、TV番組でアレが美味しいと聞けば行列を成して喰らいに行き、それが「オイシー」という事なのだと納得し、ケータイで写真撮ってオイシカッタと満足する。。。。自分にとって何がオイシーのか?すら分からぬようになってはいないでしょうか?

ヨガや瞑想とは、「自分」をそのような外的影響から「一時の間」解き放ちニュートラルな状態に戻すといった行為であろうかと僕は考えます。難しく言えば「自己の本質、真の自己に立ち返る」、簡単に言えば「自分自身と相談する」という事です。「自分」にとってホンマニエー状態とは何なのか、「自分」は一体全体ナニヲノゾンデイルノカ。。。とね。

とはいえ、瞑想から覚めれば、ガンヂガラメの現実の世界で生きて行かざるを得ない事に変わりはありません。この禄でもない世間と折り合いを付けねばならぬという事です。とりあえず目の前のオッシゴトを片付けないとね。オッシゴトを。。。トーチャン頑張らねば。。

今の時代「ソレ」を知ってしまう事は、かえって生き難い事なのかも知れません。与えられる情報(宣伝)を盲目的に受け入れて盲目的に消費し、と同時に盲目的に生産(オッシゴト)して盲目的に他者の消費を煽る(これをハチマル用語で「人間の自動生産消費機械化」と言う、ホントはマルクスさん用語かもしれない、で、誰が得するのか?ヨック考えてみよう)。で、暇な時はバーチャルの世界に逃避して鬱憤を晴らす。事あれば癒しイヤシと賤しく癒される事を求める。。。その方が楽と言えば楽でしょうが、そんなんでエーワケガアリマセン。デスヨね?少なくとも僕はゾッとします。

こいう時代だからこそ、束の間の瞑想でも良いから「ニュートラル」に立ち返る事がとってトッテモ大事なのだと僕は思います。電車の中で老若男女を問わず殆どのヒトがモバゲーやメールをやっているようですが、せっかく「ボーーーーーー」とする絶好の時間を無駄にしているように思えてなりません。ナーンモ考えずにアホみたいに「ボーーーー」は、ハヤイハナシ瞑想と同じです。ケータイが普及する以前の人々は、今よりも「電車でボーーーー」から無意識に貴重なものを得ていたのではないかと思います。さらに昔のヒトは雲や星を見上げて「一時ボーーーーー」とする機会が今よりもずっと多かったはずです。みんななんとなく瞑想していたという事です。貴重な束の間の「電車でボーーーー」の時間まで広告媒体(他者の利潤追求行動)に身を捧げる必要はないでしょう。チャイマッスカ?

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2013年12月29日 (日) | Edit |
今回もオヂオではなくヨガ関連のオッハナシ。スイマセン。。

瞑想によってヒトはナニを観じるのか。。。ちょっと難しいオハナシになるかも知れませんが、現時点での僕の想うところをなんとか書いてみます。例によって、僕の実体験と思考に基づく全くの独断的、直感的、ファージー的洞察です。

で、今回のキーワードは「諸行無常」。

森羅万象は様々な周期が重なり合って変動し、決して留まる事はありません。つまり「諸行無常」というやつです。日本人は「諸行無常」という言葉に独特のセンチメンタリズムを持ちますが(平家物語や、桜。。素敵だと思います)、これから書く諸行無常にオセンチさんが入り込む余地は全くありません。

Imagine - イメージしてみよう
イメージを易しくするために、陸地の無い海だけの地球を思い浮かべてください。水の惑星です。

この海を新羅万障(宇宙)と考え、この惑星上のある1点をとりあえず宇宙の中の「自分」と考えてみます(本当は個人なんて1つの水分子にも満たないと思うのですが、とりあえず。。。)。この1点における水位は、周囲と影響し合いながら、極論を言えば海全体と影響し合いながら(だってゼンブ繫がってるんダモン)、常に変動します。チャプチャプ ザブザブと一時たりとも留まりません。

1点の運動が海全体に影響しながら、また逆に海全体が全ての点に影響しながら、その変動周期は短いのから長いのまで様々に重なり合っています。分子レベルの振動から、チャプチャプというさざ波、気象現象(低気圧や風等)による変動、他の天体との引力(特に月)による変動(潮汐現象、1月または1年あるいはもっと長い周期の変動)、氷河期/間氷期による変動(数ヒャクマンネン!)等、その周期は長いものから短いものまで様々です。最も長い周期は、煮えたぎる溶岩の固まりであった生まれたての惑星が冷えて海が形成され、太陽活動の衰えによって完全に凍ってしまうまでのサイクルと考える事ができます(トリアエズね)。ハチマル用語では、これらを「ムゲンノフーリエキュースー」と呼ぶ。

で、短い時間スパンで見ると、海の1点である僕達個人は、周囲(卑近に言えば社会、極論を言えば宇宙全体)と関わり合いながら今この瞬間チャプチャプ、ザブザブしたり、大波に翻弄されたり、一時たりとも留まらず忙しい限りです。目がまわりそうですね。でも、ある時間で平均化してみると、細かい変動は消えて緩やかな大きな変動を観じる事ができます。観じる時間スパンを長くすればするほど、大きなウネリが見えてきます。これが歴史観というやつですね。セーヂカにとって、これは非常に重要ですが、ハテサテ。。チャプチャプしか見えてないよね。。。目の前のケーザイセーチョしかさ。。ケーザイがどこまでもセーチョし続ける事など絶対にあり得ない(最早そーゆーフェイズではないし、ソレを強行すれば世界のドコカが必ず損害を被る - つまりサイクルと繋がり)とは観じないのか?。。これをハチマル用語で「オッサン」と呼ぶ。

とハナシが逸れそうなので、今回はココまで。次回に続く。。

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2012年02月29日 (水) | Edit |
今までジムでは殆どランとスイムしかやらなかったのですが、今年に入ってからウェイトトレーニングとストレッチをメインでやっています。

というのは、昨年末に家の片付けをした時に、以前まで簡単に箪笥の上まで持ち上げる事ができた箱を、なかなか持ち上げる事ができず、身体の衰えにショックを受けたためです。結局踏み台が必要でした。筋力だけでなく、肩の関節の可動範囲が狭くなっている事にも気づきました。ハチマルは現在52才。今までそれほど気にならなかった肉体の衰えが、はっきりと自覚できるようになったという事でしょう。

ジムでは最低限30分のストレッチと約30分のマシンレーニングをやり、元気な時は最後に約30分のトレッドミルかステップマシンをやるというのが最近のメニューです。週に3回か4回のペースでやっています。かれこれ一月以上続けましたが、昨日、自宅の風呂場で鏡を見て、上半身が随分カッコヨクなっているのに驚きました。お腹は割れてないですけどね。あと一月は続けるかな。。。最近全然泳いでいませんが、以前よりも速く泳げるようになっていると思います(下半身の筋力は人並み以上なのですが、上半身の筋力が女性並のハチマルは、プールでよく水泳に達者なオバーサンに煽られました)。

ストレッチは30分~40分くらい、時には1時間近くかけて、たっぷりとやります。独身時代は自転車レース(ロード)、結婚してからはマラソン(100kmも完走したぞ!)に随分入れ込んだので、自然と自分なりのストレッチメニューができています。ジムの広々としたストレッチエリアで、思いっきり手足を伸ばして、タップリと時間をかけてやるのですが、この時にイヤフォンで音楽を聴くのが最近のお気に入りです。

ストレッチは基本的にヨガと同じで、肉体的な効果だけでなく、精神的にも非常にリラックスできます。本当に気持ちが良いのですよ、これが。。呼吸もゆっくりと、深くなります。ゆっくりと、しっかりと息を吐き出すと、身体は普段よりも深く曲がります。ストレッチ中は、気持ちが良くて殆ど目を瞑っており、ヨガと同様に瞑想に近い状態になっていると思います。

で、このような状態で音楽を聴くと、普段部屋で聴くよりも、より深く「シンクロ」できるような気がします。時々、ポーズを取るのも忘れて、ただ仰向けに横たわって、身体も精神もフニャーと弛緩した状態で深く音楽に没入してしまいます(なので、気が付くと1時間近くストレッチエリアで転がっている事もある)。この状態では、もはや聴覚で聞いているという感じはしません。この状態を僕は「シンクロする」と呼んでいます。これが最も「音楽」を楽しめる状態であるように思えます。

最近ジムでは、ジャコさんとジミさんのコレクションをVictor製の携帯プレーヤにコピーして聴いていますが、彼らの入神の演奏を聴く時、僕も彼らに「シンクロ」して意識がしばらく飛びます。いわゆるトリップした状態です。もはや「音」は聞こえません。「音楽」だけが意識に流れ込みます。学生時代に下宿の枕元に置いたステレオラジカセでよくこの状態になりました。

中3でビートルズを体験して以来、学生時代はアート全般に深く興味を持ち、片っ端にいろいろなジャンルのアートにも触れました。また、写真を通して自ら「表現する」という事も経験しました。そのような体験を通して、アートに触れる際のコツとして「精神を弛緩させる(開放する、遊ばせる、freeにする)」事が重要であると気付きました。理性を後退させ、精神をフニャフニャのスポンジのように弛緩させるのです。言い換えれば、精神を出来るだけ「素直」な状態にするという事かもしれません。うまく言えないのですが、例えば絵画や写真を見ていても、視覚で「見ている」という状態から、シューーーっと「見ている」という意識が遠のく感じでしょうか? なんか意味不明ですが、ハチマル用語ではこれを「モードチェーーーーンジ」と呼びます。

この「フニャー」を身に付けてしまった僕は、クラシックのコンサートでも座席でフニャーとなるので、一緒に行った家内によく「シャントシナサイ!」と叱られました。でも、背筋を正して聴いても駄目なんですよ。ハチマルは。なので、曲が始まると程なく、フニャーとしてました。

「集中して聴く」とよく言われますが、実はこの「フニャー」が究極の「音楽」に集中した状態だと思います。「聴覚」に集中しても、それでは「音楽」の表層にしかアクセスできません。「聴覚」を越えた先に、真の「音楽を聴く喜び」「音楽の本質」「音楽の醍醐味」があるようにハチマルには思えます。「聴覚」はインターフェイスにしか過ぎず、楽しむべきは、そのインターフェイスを介して伝達される内容(すなわち「音楽の本質」)にあるという事でしょう。インターネットのコンテンツを見る際に、誰もインターフェイスの事なんか気にしないですよね。それと同じかもしれません。

普段のハチマルは仕事しながら音楽を聴きますし、学生時代もナニカしながら音楽を聴く事が多かったと思います。僕の身の回りの音楽愛聴者達も、大概手遊びにナニカしながら聴いています。この「ナガラ」というのは、不真面目なようでいて、「聴覚」に対する要らぬ意識を排除する(聴覚を忘れる)上で、効果的であるように思います。「集中」して聴いていないようでいて、実は表層的な「音」に下手に「集中」して聴くよりも、要らぬ「意識」や「理性」が邪魔をしないため、かえって「音楽の本質」にアクセスしやすいようにも思えます。ナガラする事により、「音楽」を「感じる」ココロの深い部分を、余計な「理性」や「意識」から開放できるという事です。

また、ナガラは長時間何度でも繰り返し聴けるという点でも優れます。「何度も繰り返す」というのは、語学学習と同じで、ある意味とても効果的です。これは生演奏では得られない、再生音楽ならではの長所であると言えます。ハチマルがジャズに目覚めたのも、中3の時に、受験勉強しナガラ、マイルスのKind of Blueを語学学習用ラジカセで無限にリピートして聴いたおかげです。ビートルズを一通りアホみたいに集中して聴きまくり、他のロックも聴いてみたけど大して興味を持てず、何か面白い音楽はないかと模索していた頃でした。ロックとクラシックは比較的聞き所が近いように感じたのですが、Kind of Blue (ジャズ)は聞き所がわからず、最初はチンプンカンでした。でも、何度もリピートして半ば無意識に聴いているうちに、突然「ガチャ」とジャズの鍵が開きました。その後、今に至るまでジャズは僕の最もお気に入りのジャンルとなりました。今振り返っても、貴重な瞬間だったと思います。また、ベースラインを基準に全体を聴くという癖が付いたのも、この時以来です。というか、この聴き方を見つけたからこそ、ジャズのオモシロサが分かったという事かもしれません。

再生音楽を聴く場合、「聴覚」以外の情報が完全に欠落するため、「聴覚」から意識を開放して「音楽の本質」にアクセスするには、ライブとは異なるそれなりのコツが必要なのかもしれません。ただ、幸いにもオーヂオザッシやヒヨウロンカの影響を受けずに、素直に再生音楽に接する自然な経験を積んだ一般音楽愛聴者達は、自分なりにそのコツを無意識に身に付けています(別に難しい事ではない。本当に「自分が」大好きな音楽を夢中で聴いていれば、意識しなくても自然に身につく)。ハチマルの「フニャー」や「ナガラ」もそのコツの一種でしょう。あ、それと「ストレッチしナガラ」も新たなコツですね。

目の前にオンガクという凄いゴチソーがあるのに、オンシツやオンジョーを過剰に意識する余りに「聴覚」に縛られ、そこから意識を開放して自由に遊ばせる事ができないのは、ハチマルにはとてもモッタイナク感じられます。

ハチマルは、音楽再生装置に対して、ソースに記録されている情報を、余計な事をせずに、できるだけ余す事なく、正確に、明瞭に、素直に「聴覚」というインターフェイスまで伝達してくれる事を第一に望みます。そこから先の「音楽の本質」へのアクセスは、ココロの領域だという事です。「音楽」を楽しむのは耳ではなくココロだという事です。
追記
インターネットも同じですよね。インターフェイスは、プロバイダが提供する全ての情報を、そのまま正確に端末の画面に表示(すなわち視覚に伝達)してくれなくては困ります。そうやって初めて、内容(コンテンツ)を完全に楽しむ事ができるようになります。

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テーマ:オーディオ
ジャンル:趣味・実用